森田愛子をたずねて

みくに龍翔館は、えちぜん鉄道三国駅の北東の坂道を登ったところにある。森田愛子と伊藤柏翠の展示は、二人の句の軸や、虚子の葉書などが並び、詳しい年譜も掲げてあった。ミーハーな動機ながら、実践女子専門学校時代にも、道行く人が振り返ったという森田愛子の写真を見たかったのだが、展示室には人の良さそうな笑顔の写真が一葉だけだった。窓口で図録がないか聞いて、渡されたものを見て驚いた。愛子は大正6年生まれだったというが、全然大正・昭和的な感じがない。上戸彩が着物を着たらこうもあろうかというきわめて現代的な佳人である。若き日の伊藤柏翠も歌舞若伎俳優のような面立ちで、二人が野の花を前にして並んでいる写真などは映画のスチール写真のようである。愛子と柏翠は七里ヶ浜の療養所で知り合い、俳句の手ほどきを柏翠がした後、愛子もホトトギスに投句している。虚子の助言もあって二人は結婚はしなかったが、先に退院した愛子を追い、柏翠は三国に暮らすようになる。
虚子の小説「愛居」には柏翠の居た療養所に虚子の娘達が見舞いに行ったことが書いてある。「其は丼にさらつと盛つてある御飯に、西洋皿のやうな侘しい皿に、昆布とにしんの佃煮、其に豆が二三十粒添へてあるものであつた(中略)柏翠は、此病院の食物が此時勢のためだん々貧弱になつて来て、これでは栄養が摂れないから、最近に三国に行く積もりだと話していた。」 年譜によると柏翠は18歳から34歳まで療養所にいた。親達も早くに亡くし、身元を引き受けてくれる所がなかったせいだろう。それだけ病院生活に慣れてしまうと、きっと退所するのも一大決心が要ったに違いない。
21年に没した久女の死因が当時の病院食の事情の悪さによる栄養失調のせいもあったのではないか、という記事を読んだ矢先のことだけに、結核療養所も同様だったのだろうかと想像してみる。
柏翠は、三国についてからは気胸になるなどして、危ない時期もあったようだが、愛子を亡くした後も三国に住み、結婚もし、二人の娘にも恵まれ、米寿でなくなる平成11年まで存命だった。何の偶然か森田愛子の母も米寿まで生き、昭和55年に亡くなっている。 虚子のおかげもあろうが、俳人としては数年しか活動できなかった愛子の句集や句碑が残ったのは、 この二人の長寿も大きかったのだろう。もっとも、三好達治も「燈下言」の「自慢」という一編で熱心に句に打ち込む、愛子の句稿を見せられたことなど回想を書いているが、愛子の句はたくさんあり、全部が発表されているわけではないらしい。
龍翔館を出て、坂を下り三国の街に入っていった。愛子に縁のある森田銀行は今でも建物が保存され、見学して外に出ると雨が降っている。向かい側の新しいカフェに入って虚子の「虹」を読み返した。文字だけだった物語が頭の中ではっきりした映像になっていく。陽が射してきたので外に出て河端まで出た。九頭竜川は上流近くの郡上に住む自分にとって、耳に親しいものだったが、河口がこんな表情があるとは、不惑を越えて初めて知った。愛子にとっての河のイメージは自分の持っている故郷のそれとは、全然違うものなんだろう…と、えちぜん鉄道の時間まで、しばしぼんやりしていたのだった。

わが家の対岸に来て春惜しむ 愛子