中原中也記念館

 中也記念館を訪れて、印象深かったことは、中也の残した私信、ノートや原稿用紙に書きとどめた草稿などが、予想を遥かに超えて、数多く展示されていたことである。
 展示品は一部であるから、実際残されているものは二時間ほどかけて見たもの以上にまだあるのだろう。しかし、京都や東京都内、鎌倉とほうぼうを転々とする生涯だったのに、よく残ったものだ。詩集か雑誌の題名をあれこれと考えて書きなぐってある紙まであり、いかにも文学青年が考えそうな命名が連ねてあり微笑ましかった。しかし、そんな走り書きまで残っているのは単なる幸運だけではなさそうだ。自分の作品にまつわるものに最後まで愛着を持ち、詩集刊行に対してあきらめなかった一念が、さまざまなものを後世に残すことになったかと推測する。私自身に、十代に書いた習作などの一切を、さすがに不要と三十前の引越しの時に捨てた記憶があるので、よけいに稀有なこととと感じるのかもしれない。
 
 中也は二十歳の時に影響を受けた富永太郎の遺稿詩集の刊行に刺激を受け、詩集の構想を考えるようになったそうだ。第一詩集『山羊の歌』については、二十五歳で編集に着手して、それから原稿は五社をめぐって二十七の時にようやく刊行という長期戦で、展示の詳細を見ながら、中身だけ印刷が済んでそれがなかなか本の形にならなかったのは、さぞかし重荷だったろうと、こちらも圧迫される思いで次に進むと「僕はもうバッハにモツアルトにも倦果てた」で始まり「ゆふがた、空の下で身一点に感じられれば、万事に於いて文句はないのだ。」で結ばれる「いのちの声」がパネル展示してあり、『山羊の歌』も置かれていた。
 中也は草野心平の紹介で高村光太郎に装丁を頼んだと年譜にある。薄い卵色の地に朱で中原中也と書かれ、タイトルは墨字、上品で重味のある装丁だ。青山二郎の考案したデザインも見たが、中也に似合ってはいる。しかし、目指すものが違うから、中也は採らなかったようにも思った。中也は玄人受けとは別のところで詩が読まれることを願ったのだろう。詩集の連を考慮して本のノドの開きまで計算したよう。ただ造本は中也が配慮したようには行き届かなかったとか。
 館長さんに後でお聞きしたところ、『山羊の歌』は当時、かなり話題になったということだ。私が思っていたように、晩年の中也が「失意で故郷を目指した」のは違っていて、次の詩集の反響を期待しながら病に斃れ、故郷を目指したのだとか。やはり人の話は聞くものである。詩集の原稿が現存しないと聞いて、それも驚いた。昔は複写ができないから、原稿は散逸するものだったらしい。しかしこのところ発見が続くから、どこぞの土蔵か押入れから出てこればいいのに。
 中也の生涯については切れ切れの知識しかなかったので、吉行和子ナレーションの「中也の奇跡」が大変役立った。長谷川泰子の後年の映像や「朝の歌」の音源も聴くことができた。
 そして、二階展示室では、今月19日まで「第15回中原中也賞の企画展」として、文月悠光さんの幼少期からの習作やポートレイト、『適切な世界の適切ならざる私』(思潮社)の装画などが展示されていた。そして中也賞詩集の候補作が全部置いてあった。大江麻衣『道の絵』、尾中俊介『CUL−DE−SAC』、浦歌無子『耳の中の湖』、八柳梨花『Beady-fingers』、山田亮太『ジャイアントフィールド』 いずれも話題作だが、手に入りにくいのでつい、短評などを見て「こういう詩集か」と勝手にイメージをつくってしまっていたが、やはり、現物を見たほうがいいのだ。自分の脳の容量を超えて凄いから。大学時代、何でも憶測でものを言う学生達に、原典は出来得る限り探して読むものだと言語学の先生が何遍も繰り返していた。二十年経ってやっと分かってきた。
 
 中也記念館では、もらって嬉しくなる館報や栞をたくさんいただいた。館報2010には松本隆インタビューが載っている。記念館の意欲的な取り組みは7人のスタッフで行われているとのことだ。
 館長の中原豊さんに、「なぜ100年経っても中也のみ、毎日読者が途切れないのでしょうか?」と抱えてきた謎を聞いてみたところ、「一口では言えませんが」とおっしゃられながらも、中原さんもお仕事柄、毎日中也の記事を検索しておられるということで、日々誰かが読んでいるという凄さについて、京都の中也についてあれこれ教えていただいた。

 中也記念館を辞して立ち寄り温泉にいってみるとシーズンではないからか、あまり人はいなかったが、順路について従業員の人が丁寧に説明をしてくださった。そばを頼んだら、まめに給仕もされる。大抵女性の一人旅というと「まあこれでいいよね」というラフな扱いを受けるのが大抵だが、前夜のホテルも格安なのにコーヒー券がついていて、セルフサービスではなかった。広い部屋に掃除も行き届いており、正式にもてなすという地域性を感じた。帰りの駅でも売店の人達は、少ない土産を丁寧に包んでくれたり、試食をどんどん出して勧め、買うものひとつひとつに袋をつけてくれようとした。最近は「全部おまとめでいいですね」と手順を省略しようとしたりエコに事寄せて袋は頼まないともらえないので、山口の人はもてなすことに対してきっと正当な気遣いを重んじるし、相手にも礼儀を求めるのかもしれないなという気がした。そう思うと時には乱暴者だった中也にもその丁寧さを重んじる下地はあったろうから、ずいぶん他所では苦労したことだろう…(余計なお世話だろうが)恋人に田舎者と言われても、その気質は生涯どこかに残り、詩集のかたちにも反映されたように感じる。もし生きていたら『在りし日の歌』の少年ジャンプみたいな(失礼)青山二郎デザインの函は気にいらなかったのではないかと思うのだが・・しかしこの詩集で中也は永遠になったのだから、運命の掛け違いとは時に思いも寄らぬ現実を組み立てていってしまうのだ。
 
 もうすぐ夏休み。新幹線だと思うより近い。子は詩集でも読んで、温泉で親孝行はいかがか。おいでませ山口へ(一度言いたかった!笑)
 
追記 山口は盆地で、なだらかな山がずっとつづいている。中原館長さんに「風土を味わって中也を感じてみたらいかがでしょう」と聞いたこともあり、地図にいろいろ書き込んで帰った。たまたま現代詩手帖連詩の最後のユニットに先週参加して、三度目のツイート、最終行用に「なだらかな愛、と地図に記す」と出てきた言葉をそのまま書いてみたら、最終行に採用になっていた。この連詩現代詩手帖に載るそうです。ご覧になれたら150行目を見てやってください。