ハイカラさんの苦悩

イカラさんの苦悩   
 料理家、飯田美雪の自伝、『食卓の昭和史』(講談社)を読んでいると、大正の初め、父親の仕事の関係で、平壌にいた飯田が女学校を卒業して東京に戻り、兄たちの食事の世話を始めた頃の感想に目が留まった。「この頃の生活で私がいちばんいやだったのが、食事のための買い物です。日本は階級差別のない国といいますが、それでも昔は、ある程度の家の娘が八百屋や魚屋の前に立つというのは、身を切られるほど恥ずかしくつらいものでした。そのころは両親の元ではみな、注文で依頼する習慣でした。料理をつくることは大好きで、昔から母の手伝いをしていましたから、とても楽しいことでしたが・・・。」というものだ。
 以前、原敬の家族が書いた伝記に、原家には「台所の奥様」と呼ばれる食事全般を預かる人がいて、家の主婦にも台所に入られるのを嫌ったとあったが、ある時代までは炊事、洗濯、育児が分業になっていたために、「買い物が恥ずかしい」という意識を、結構な年齢になってから克服しなければならない人もいたのだろう。大正生まれの死んだ祖母も、食料品を祖父に買ってきてもらう人で、ずいぶんな年になってから、スーパーマーケットに連れていった時「スーパーはあんきやな」と言っていた。あまり人とやりとりすることがないから、気が楽でいい、ということが言いたかったのだろうか。賑やかな人だったが、なにか引っ込み思案なところがあった。子供や孫が農作業をしていても一切加わらず、かといって炊事を引き受けるわけでもないという子どもには理解できない性分を持っていた。辺鄙な場所の話ながら、祖母の生まれた家は農家ではなく、高等女学校を出たという矜持を一生引きずっていたところを思うと、現代人の孫は、内にこもる性格かと勘違いしていたが、祖母は粗雑な孫を使用人のように思っていたのかもしれない。とんだ家庭内封建時代だ。今更ながら、あれまあとため息が出るが、今生きていれば「ネットはもっとあんきやよ」とかなんとか言ってあげられるものを。時、すでに遅し。
 飯田深雪と同時代で活躍した料理研究家の河野貞子や、江上トミが海の向こうのハウスキーピングを学び、戦後、料理番組などを通じて経済的で合理的な家庭料理を広めた一方で、飯田深雪が教えた料理は、もっと華やかな「おもてなし」であることに特徴がある。
  料理を教えるきっかけは、知人の紹介で復興局の職員にお菓子などを教え始めたことで、シュークリームやアップルパイを教えて評判を取り、昭和25年にはテ-ブルセッティングを教え始めたという。昭和39年にはテ-ブルに飾るアートフラワー(造花)の展示会も開き、かつての外交官婦人の面目躍如である。
  1903年に生まれ、2007年に103歳で没したこの人の白寿の姿を『きょうの料理が伝えてきた昭和のおかず』(NHK出版)に見ることができるが、その年になっても食生活は洋食の割合が多いと記してある。100歳声越えの人は、食事の好みからして馬力が違うのだった。
 23歳で結婚し、アメリカ、ヨーロッパ、インドで海外生活を経験し、戦後、三十代から悩んでいた結婚生活を51歳で解消し、その後100歳まで料理を教えたという。今で言う美魔女風の、その優しげな表情からははかりしれない。冒頭で紹介した「食卓の昭和史」では、センチメンタルに過去を振り返るようなことは一切言及していない、生前「仕事が人生をかえてくれました。下を向いて沈んで生きていた人生から前を向いて一人で歩く人生へと」と言っていたそうだが、昔の人は嗜み深いので、苦悩の翳については読み込むことができなかった。ただ、生活に後を押されて始めた仕事に勢いをもらって、人生の扉を次々と開けていったその姿には、心からの拍手を送りたくなる。                 
                      2014.1.12