梅雨の痛み

知人が、車を洗っている時、腰に衝撃が走ったと言って浮かない顔をしていた。机の前に座っている時はさほどでもないように見えたが、立ちあがった時の腰をひいて痛みをやり過ごす様子を見て、あっと思った。「今、帰らないと動けなくなるよ」と忠告をしたところ、初めは「様子を見ますー」とぎっくり腰がどんなものか分かっていないと見えた若者も、昼頃になって、押し寄せる痛みのビッグウェーブに耐えかね、文字通り、這う這うの体で帰っていった。
 5日経って戻ってきた知人に「あの時帰ってよかったです。あの後、ずっと寝たきりになってしまって」とお礼を言われ、自分がヘルニア持ちなので、梅雨時は用心深くなっているだけのことなんだよ、と返事をしながら、面映ゆい気持ちになった。
 十代の頃は、父親が斬り倒した楢の木材を二人で運んだり、二十代は、ビールの詰まった黄色のケースを2つ重ねて焼き鳥屋の二階まで運んだりと、運動神経はイマイチながらも力はあったのに、三十代、福祉職についた途端にお決まりのぎっくり腰の繰返し。四十代の今は寛解状態なれど、腰椎四番、五番のヘルニアを抱えて今に至る。
 12年ほど前、冬場から大腿骨の付け根あたりが痛くなり、ケロリンロキソニンを大量に服用して堪えていたものの、半年経った頃、あまりの痛みに車に乗りこんだものの動けなくなった。生まれて初めて救急車を呼び、そのまま10日間、寝たきりの生活を送った。
 椎間板が破れて飛び出た軟骨が、きゅうきゅう足の神経を押しているから、腰ではないところに痛みが出るという説明を受けたが、ちょっと動くと焼けただれるような痛みが出る。
 座っても痛いので、病院の食事は、寝たまま箸で塊を探って刺しては食べ、刺しては食べしていた。しかし、ブロック注射を二回やっても状態がはかばしくなく、排泄などに動くにも大変な痛みをこらえなければならないので、次第に食もすすまなくなり、グレープフルーツだけ食べて終わりという日もあった。
あれは、どういう経緯だったか、行きつけだった焼き鳥屋のおばさんが、わざわざ見舞いに来てくれて、寝たきりの私を見て驚き、病院には内緒で鍼灸の人を呼んできた。その鍼が効いたのか、次の日の神経ブロックが効いたのかは分からないが、入院13日目に、やっと立つことができて寝たきりから脱出。売店で買ったスポーツドリンクが「甘露」と思えるほどおいしかった。
その後すぐ、痛みは治まっていたものの、当時は保険のきかなかった腰のレーザー手術をした。寝たきり体験が、本当に堪えたからだ。
それから、アブラナ科目の野菜が腰にいいと聞けばせっせと食べ、イノシシもいいからと実家で食べさせてもらうという食養生が続いた。
 鍼でよくなったという思いから、東洋医学の分野の本も気になり、大橋巨泉がカナダとオーストラリアで暮らしているのは、若い頃、階段から飛び降りたらヘルニアになり、日本の梅雨時と初冬が腰には良くないシーズンだから日本滞在は避けているという豆知識までなぜか仕入れる始末。
確か、あの時寝たきりから解放されて、テレビで最初に見たのが、曽我ひとみさんとジェンキンスさんの熱い抱擁だった。「生きていてこそだな」と、見ていて目頭を熱くしたものだが、まためぐってきた梅雨時、あの時の立役者だった政治家が、命の無駄遣いを奨める言葉をいい放つとは。
 こんな鉛玉を飲んだ気持ちでこの先暮らしていかなくてはいけないのだろうか。子どもの頃から、平和の意味を問われ、折りに触れて考えながら大人になったのだ。突然、全然違う物差しをもってこられ、急に自衛隊の宣伝広告をばんばん流されたら、今、感じるのは不愉快と恐怖だけだ。
 戦争の影響は、分かりやすくない形で実は日本の家庭の中にまだ残っている。その検証もまだきちんと行われていないのだ。たいして生きていないのに、国が平和を手放そうとしている瞬間を目撃することになるとは、本当に悲しいことだ。
2014.7.7