ハイカラさんの苦悩

イカラさんの苦悩   
 料理家、飯田美雪の自伝、『食卓の昭和史』(講談社)を読んでいると、大正の初め、父親の仕事の関係で、平壌にいた飯田が女学校を卒業して東京に戻り、兄たちの食事の世話を始めた頃の感想に目が留まった。「この頃の生活で私がいちばんいやだったのが、食事のための買い物です。日本は階級差別のない国といいますが、それでも昔は、ある程度の家の娘が八百屋や魚屋の前に立つというのは、身を切られるほど恥ずかしくつらいものでした。そのころは両親の元ではみな、注文で依頼する習慣でした。料理をつくることは大好きで、昔から母の手伝いをしていましたから、とても楽しいことでしたが・・・。」というものだ。
 以前、原敬の家族が書いた伝記に、原家には「台所の奥様」と呼ばれる食事全般を預かる人がいて、家の主婦にも台所に入られるのを嫌ったとあったが、ある時代までは炊事、洗濯、育児が分業になっていたために、「買い物が恥ずかしい」という意識を、結構な年齢になってから克服しなければならない人もいたのだろう。大正生まれの死んだ祖母も、食料品を祖父に買ってきてもらう人で、ずいぶんな年になってから、スーパーマーケットに連れていった時「スーパーはあんきやな」と言っていた。あまり人とやりとりすることがないから、気が楽でいい、ということが言いたかったのだろうか。賑やかな人だったが、なにか引っ込み思案なところがあった。子供や孫が農作業をしていても一切加わらず、かといって炊事を引き受けるわけでもないという子どもには理解できない性分を持っていた。辺鄙な場所の話ながら、祖母の生まれた家は農家ではなく、高等女学校を出たという矜持を一生引きずっていたところを思うと、現代人の孫は、内にこもる性格かと勘違いしていたが、祖母は粗雑な孫を使用人のように思っていたのかもしれない。とんだ家庭内封建時代だ。今更ながら、あれまあとため息が出るが、今生きていれば「ネットはもっとあんきやよ」とかなんとか言ってあげられるものを。時、すでに遅し。
 飯田深雪と同時代で活躍した料理研究家の河野貞子や、江上トミが海の向こうのハウスキーピングを学び、戦後、料理番組などを通じて経済的で合理的な家庭料理を広めた一方で、飯田深雪が教えた料理は、もっと華やかな「おもてなし」であることに特徴がある。
  料理を教えるきっかけは、知人の紹介で復興局の職員にお菓子などを教え始めたことで、シュークリームやアップルパイを教えて評判を取り、昭和25年にはテ-ブルセッティングを教え始めたという。昭和39年にはテ-ブルに飾るアートフラワー(造花)の展示会も開き、かつての外交官婦人の面目躍如である。
  1903年に生まれ、2007年に103歳で没したこの人の白寿の姿を『きょうの料理が伝えてきた昭和のおかず』(NHK出版)に見ることができるが、その年になっても食生活は洋食の割合が多いと記してある。100歳声越えの人は、食事の好みからして馬力が違うのだった。
 23歳で結婚し、アメリカ、ヨーロッパ、インドで海外生活を経験し、戦後、三十代から悩んでいた結婚生活を51歳で解消し、その後100歳まで料理を教えたという。今で言う美魔女風の、その優しげな表情からははかりしれない。冒頭で紹介した「食卓の昭和史」では、センチメンタルに過去を振り返るようなことは一切言及していない、生前「仕事が人生をかえてくれました。下を向いて沈んで生きていた人生から前を向いて一人で歩く人生へと」と言っていたそうだが、昔の人は嗜み深いので、苦悩の翳については読み込むことができなかった。ただ、生活に後を押されて始めた仕事に勢いをもらって、人生の扉を次々と開けていったその姿には、心からの拍手を送りたくなる。                 
                      2014.1.12

祖父より受けつぐ

梅雨に入ると、故郷では、天気の具合によって、朝に夕に田んぼの水を調節していたものだ。
今年は梅雨寒で、発熱したとか、咳が続くとか、胃がちゃぽちゃぽする、汗も出ず身体が冷える、汗が出ず口内炎が出るなど、身近にすっきりしない体調の病人が続出、毎日毎日病院通いが続いた。待合室で、患者達の愁訴を聞いていると、畑の作柄と自分の身体の話題が多い。ぼうっと耳に入れていると、枝豆畑の心配と、膝の具合の話が被さってきて、気圧が低く、太陽が射さないことで、どこもかしこも畑も人も不具合が出てくるようだ。現代人の身体って田んぼや畑の具合に似てるなぁ、と思わされた。
 そう思うと二十年前に死んだ祖父には、介護が必要になった時には、祖父を通して、畑や田んぼの手入れを思い浮かべるようなことはなかった。山で木の世話をすることが仕事の大半だった祖父は、山にいる猿や鹿のことをよく話していたが、「けものは身体が、もうだしかんとなると、死んだように寝てな、なおすんや」と教えてくれながら、自身が体調が思わしくないと、とにかく横になっていた。子どもの頃から山で暮らすように遊んでいたから、野生的なものが鍛えられていたのだろう。
 その祖父は、脳梗塞で倒れ、日常にできることの力が落ちたとたん、暫くしてこの世を去った。祖母が高齢になってからの目の手術を受け、それが引き金になって認知症になり、それから10年の介護の日々だったことを思うと、祖父のは、人の手入れとは無縁な、原生林のような生を全うしたように感じる。
 短く生きた祖父も長く生きた祖母も、還暦過ぎのある時期までは、同じような昼の膳を来る日も来る日も食べていた。祖父がカブに乗って、収穫した椎茸を現金に換え、農協のスーパーで塩鮭かハムを購って、これまた塩辛い味噌汁で
ご飯をかきこんでいた。 
 あんな塩分食を食べていたのに、祖母は順当に血圧が高かったのに対して、祖父は血圧がむしろ低かった。
 孫の私は、雨が降ると咳が出るし、血圧は高く、健診を受けると何のかんのとやたらひっかかる。祖父の遺伝子をもらいながら、原生林のような生とはあまりにもかけ離れた生活がこれからも続く。 
しかし、いつかは、祖父の身体のように、自然に死を受け入れられる準備ができたらよいのだが…などと、いろいろ考えてしまう人間ドック5日前、なのであった。
2014.6.24

給食にもドラマあり

グループホームというところは、介護や介助の必要な人をたくさん抱えた家族のようなものだから、一人一人の細かいオーダーを把握するのがちょっとした苦労である。病院や調理場のある施設では、調理師が栄養士の立てた献立を見ながら必要に応じて料理を刻んだりミキサー食やとろみづけを手分けしてやるのだと思うが、今のホームは基本的には一人で10人分を作って、必要に応じて刻んだりペースト状にしたりと手間がかかる。
 松山ルミ『新卒で給食のおばさんになりました その後』(メディアファクトリー)は、調理師学校に通った後、病院の厨房で5年間働いた女性が、仕事や身辺を綴ったコミックエッセイの第二弾。ちょっと絵柄にくせがあり、同僚のおばさんの捉え方がステレオタイプなきらいがあるが、内容が給食の話であるだけにいろいろと身につまされるエピソードが満載である。
 帯にも紹介のある200人分の米をはかり間違うエピソードでは、ご飯をついでいくうちに、あれ、と思った時にはもう遅く、食事直前にご飯の不足が発覚。一度盛ったご飯を少しずつ回収して回ったり、炊いたご飯をスーパーで調達してきてもらって何とか凌いだ様子が描かれている。「あんた慣れて仕事が雑になっとるたい」と先輩調理員にダメだしをくらって、気を抜いて仕事をしてしまったことへの反省を「こうしてたまにはでかい失敗をして初心を忘れないよう働いていこうと思いました」と最終コマで締めているが、こちらもちょうど朝、台所に入って、ご飯がないことに気づき、「うおおー間に合うのかー」と心の中では太字で叫んだばかりである。おかず作りに勤しむ新人を不安に陥れないように早炊きしながら、調達したレトルトご飯をレンジにかけ、なんとか凌ぎ、「入って一番にご飯をみてね」と朝のスタッフに伝えつつ、「レトルト 5パック」と買い物メモにしっかり記したのだった。
 筆者は調理師免許があるということで職場に入ったものの、包丁使いが苦手で調理経験も少なく、バリバリの還暦シスターズに「まずはやってみらんかい」「これ味濃ゆか」「まずか」と叱咤
激励されながら、実地で料理の腕を上げていった。
 二冊目は本人の結婚退職があって、何かハッピーエンドで話が早送りになっているが、是非、一冊目も探して、人に食べさせることへの苦悩と喜びからくるてんやわんやを共感しながら味わいたいものである。
2014.4.18

梅雨の痛み

知人が、車を洗っている時、腰に衝撃が走ったと言って浮かない顔をしていた。机の前に座っている時はさほどでもないように見えたが、立ちあがった時の腰をひいて痛みをやり過ごす様子を見て、あっと思った。「今、帰らないと動けなくなるよ」と忠告をしたところ、初めは「様子を見ますー」とぎっくり腰がどんなものか分かっていないと見えた若者も、昼頃になって、押し寄せる痛みのビッグウェーブに耐えかね、文字通り、這う這うの体で帰っていった。
 5日経って戻ってきた知人に「あの時帰ってよかったです。あの後、ずっと寝たきりになってしまって」とお礼を言われ、自分がヘルニア持ちなので、梅雨時は用心深くなっているだけのことなんだよ、と返事をしながら、面映ゆい気持ちになった。
 十代の頃は、父親が斬り倒した楢の木材を二人で運んだり、二十代は、ビールの詰まった黄色のケースを2つ重ねて焼き鳥屋の二階まで運んだりと、運動神経はイマイチながらも力はあったのに、三十代、福祉職についた途端にお決まりのぎっくり腰の繰返し。四十代の今は寛解状態なれど、腰椎四番、五番のヘルニアを抱えて今に至る。
 12年ほど前、冬場から大腿骨の付け根あたりが痛くなり、ケロリンロキソニンを大量に服用して堪えていたものの、半年経った頃、あまりの痛みに車に乗りこんだものの動けなくなった。生まれて初めて救急車を呼び、そのまま10日間、寝たきりの生活を送った。
 椎間板が破れて飛び出た軟骨が、きゅうきゅう足の神経を押しているから、腰ではないところに痛みが出るという説明を受けたが、ちょっと動くと焼けただれるような痛みが出る。
 座っても痛いので、病院の食事は、寝たまま箸で塊を探って刺しては食べ、刺しては食べしていた。しかし、ブロック注射を二回やっても状態がはかばしくなく、排泄などに動くにも大変な痛みをこらえなければならないので、次第に食もすすまなくなり、グレープフルーツだけ食べて終わりという日もあった。
あれは、どういう経緯だったか、行きつけだった焼き鳥屋のおばさんが、わざわざ見舞いに来てくれて、寝たきりの私を見て驚き、病院には内緒で鍼灸の人を呼んできた。その鍼が効いたのか、次の日の神経ブロックが効いたのかは分からないが、入院13日目に、やっと立つことができて寝たきりから脱出。売店で買ったスポーツドリンクが「甘露」と思えるほどおいしかった。
その後すぐ、痛みは治まっていたものの、当時は保険のきかなかった腰のレーザー手術をした。寝たきり体験が、本当に堪えたからだ。
それから、アブラナ科目の野菜が腰にいいと聞けばせっせと食べ、イノシシもいいからと実家で食べさせてもらうという食養生が続いた。
 鍼でよくなったという思いから、東洋医学の分野の本も気になり、大橋巨泉がカナダとオーストラリアで暮らしているのは、若い頃、階段から飛び降りたらヘルニアになり、日本の梅雨時と初冬が腰には良くないシーズンだから日本滞在は避けているという豆知識までなぜか仕入れる始末。
確か、あの時寝たきりから解放されて、テレビで最初に見たのが、曽我ひとみさんとジェンキンスさんの熱い抱擁だった。「生きていてこそだな」と、見ていて目頭を熱くしたものだが、まためぐってきた梅雨時、あの時の立役者だった政治家が、命の無駄遣いを奨める言葉をいい放つとは。
 こんな鉛玉を飲んだ気持ちでこの先暮らしていかなくてはいけないのだろうか。子どもの頃から、平和の意味を問われ、折りに触れて考えながら大人になったのだ。突然、全然違う物差しをもってこられ、急に自衛隊の宣伝広告をばんばん流されたら、今、感じるのは不愉快と恐怖だけだ。
 戦争の影響は、分かりやすくない形で実は日本の家庭の中にまだ残っている。その検証もまだきちんと行われていないのだ。たいして生きていないのに、国が平和を手放そうとしている瞬間を目撃することになるとは、本当に悲しいことだ。
2014.7.7

マイファーストクッキングブック

 書店に小田真規子さんの『はじめてでも、とびきりおいしい 料理の基本練習帳』(高橋書店)が出ていたので、手に取ってみる。はじめにを読むと、あらゆるジャンルの料理本をたくさん出し、テレビでもよく見る小田さんは、料理の世界でもう20年のキャリアを積んでいるという。
 この本は「ちゃんとした料理が作れるようになりたい」という近年になってよく耳にする声に応えて書かれたものだそうだ。まずはレシピに沿ってきちんとつくり、自信の核を自らに持とうといった読者に対する真摯な言葉の後に、「一生を80年とすると、ご飯を食べられる回数は8万7600回。このうち何度、自分のため、あるいは誰かのために料理を作るのでしょう。きっと、その数は少なくないはずです」という文章を見つけ、著者の食事に対して抱いているだろう切なる気持ちに共感した。
 そういえば、曽野綾子の『太郎物語 大学編』にも同じような台詞があって、その昔、おおっと思ったものだった。『太郎物語』は、曽野の息子の三浦太郎がモデルの小説で、広岡瞬が主演でドラマ化もされたと記憶している。1951年生まれの太郎氏が名古屋の南山大学文化人類学を学んでいた頃の話だから、40年近く前のことだろうか。フレイザー金枝篇などを読む一方で、タンシチューなど料理にも凝る食いしん坊の大学生太郎が、生涯の食数を確か10万食と弾き出していた。食に関心の深い人は、皆同じようなことをつい考えてしまう習慣があるのだろうか。
 『-料理の基本練習帳』には、シチューは見当たらなかったが(続編があるのでそちらにあるのかもしれないが)ハヤシライスの作り方を見てみた。この本の一番の特徴は、プロセスカット(作り方に添えられる手順説明の写真)が本当に丁寧につけてある。大抵の本は、初心者の読者が読み込むのは最初のほうだだろうと想定しているのか、最後のほうのレシピやプロセスカットは、以下同文のように省略気味になるものだが、この本は、料理初心者が、必ずしも料理本の順番に作るとは限らないということをよく分かっているようだ。どこから作っても大丈夫な内容になっている。ハヤシライスのレシピを見ると、牛肉を炒める時の加熱時間については「フライパンに油を中火で熱し、牛肉をざっと広げて入れ、表裏1分ずつ焼いて取り出す」となっていて、「中火」「1分」は頭に残るように赤字にしてある。仕上げのところも「-煮たったら弱火で10分煮る。」というように初心者が一番苦心する「加熱」に配慮が行き届いている。
 料理を作る渦中は、慌ただしいこともあって、料理のレシピを広げることやスマホで見ることも、まずない。そして、自分の中には、明治時代から昭和30年代の人のように「料理本=心を楽しませるために読むもの」という意識が強いので、本当は、実用に徹したものより、料理家の人生観や世界観が伝わってくる本を手にすることが常だ。
 まあ、しかし度々迷いの森に入り、味見で何とか凌いでいる毎日を省みると、自炊生活の最初に、羅針盤のような一冊が備えてあれば、こころ強いのではなかろうか、と思って、新生活特集に華やぐ書店の料理棚に立って読み比べをしてみた。どの本も初心者のためとうたいながらも切り口がいろいろで面白い。急にハンバーグを頭から推したり(このIさんは、洋食が代表作だからな…)、炊飯を細々説明する本があったり(夢がない)、初心者も使えるとかいって、字ばかりの中身で出来上がり写真が美しすぎる(ハードルが高いどころか背面飛びを要求されているようだ)等々、散々楽しませてもらって、『-料理の基本練習帳』を含めて三冊手にいれた。小田真規子さんの本と双璧なのは、牧野直子『料理の教科書ビギナーズ』(新星出版社)だろう。大づかみなレシピの脇に細かい説明が併用されていて、どんなタイプの読者にも対応できる感じである。プロセスカットも細かいが、定番メニューが急にプロセスカット抜き、レシピもあっさりになっていて、そこは絞って丁寧さを貫いたほうが良かったのでは?と無責任な読者は思うのであった。初心者にとっつきやすく、「肉野菜炒め」から始まり、写真も分かりやすいし、丁寧なレシピという『お料理1年生の基本レシピBest121』(主婦の友社)は、新規撮影分が広沢京子さんという30代に人気のある料理研究家が担当とあって、よく見るとセンスのいい本である。シリーズものだから仕方がないのかもしれないが、書名と表紙を変えたらきっともっとたくさんの人が愛用するだろう、と誰にも頼まれていないのに食事も忘れて読み比べるのであった…。
2014.3.2

 

芋の皮むき今昔

映画『武士の献立』のパンフレットには、新井素子が観賞記を寄せている。言及しているのは、夫婦のありようについてだったが、依頼した人は、新井の近年の夫婦を題材にした作品を書いたものでも読んで思いついたのだろうか。新井素子のベストセラー作品を読んで学生時代を送った者にとっては、隔世の感を感じてしまった。
映画は、加賀藩に実在した御料理人の舟木伝内の残した「料理無言抄」をベースに撮られている。『大奥の食卓』(緋宮栞 那講談社+α新書)によると、加賀藩に能や狂言、茶、そして料理の文化が発達したのは、外様の前田家が、徳川に恭順の姿勢を示すため、饗応の宴を頻繁に行ったためもあるそうだそうだが、包丁侍と言われた加賀藩の御料理人制度は、明治維新前まで続き、舟木家は一七六十六年から六代に渡って料理方を務めたという。
 映画は、二代目の伝内と子の安信の話を、八大家老と藩主の反目から起こった加賀騒動をからめて描いている。全体的に話が走りぎみだったが、盛りだくさんな内容を、とにかく分かりやすく描いている。俳優も役柄の運命が最初から予想できるほど裏切らないキャスティングだ。良くも悪くも過剰な場面はなく、これは大家族で年越しに観るにはちょうどいい映画である。
 耳につくのが、舟木安信が四つ年上の妻のはるに、ことあるごとに「古狸!」と言う台詞である。妻のはるも舅の伝内に「安信には過ぎた女房じゃ」と言われると「父上だけです。やや子も出来ぬ古狸にそう言うてくれるのは」と活用しているが、安信を演じる高良健吾上戸彩は二歳しか離れていない。夫のかつての想い人より古狸のほうが可憐というのも、話の運びと画面上の釣り合いがとれない感じである。剣の道があきらめきれず、「なんとつまらん役目だ、包丁侍とは」とぼやき、やる気のない安信に、はるが「つまらないお役目だと思っているから、つまらない料理しか作れないのではありませんか」とズバッと弱味を抉るような進言するところや、可愛い夫の命を救いたいがあまり、必死で夜明けの城下をひた走るシーンなどは、もっとどーんと母性がある人を使ったら良かったのに、というのがリアル古狸としての感想である。
 ちょうどこの映画を観た後、グループホームやケアホームで働く人向けの研修会に出た。「生活を支える仕事は、仕事内容が家事や育児と似てるから、その煩雑さに躓く人もいるんです。はまるとこれほどやりがいがあることもないんだけれど」と、大阪でいくつものホームを束ねている管理者の人が語っていた。
 福祉職だからといって、全員家事のエキスパートではない。自分にしても、人に食事を作ったり掃除、洗濯をしたりというホームヘルプの仕事を本格的に始めたのは、入職15年目の今年からである。研修でも、長年、デイサービスの日勤しかしたことがない人に、急に泊まりを頼み、あまりの浮かない顔に、理由を聞いてみると「食事がつくれないんです」との告白が返ってきて、このごろのコンビニの中食の優秀さを教え、レンジで炊けるご飯とインスタント味噌汁を渡して乗りきってもらったという話を聞いた。
 現代にも、家業を継いだものの、「所詮、料理など、女子どもの仕事。なんとつまらん役目だ、包丁侍とは」と、この映画の安信のようなことを思っている人もいるのだろうが、舟木家が何代も続いたのは、人が生きていく上で一番大事な「食」という役目を担い、先祖が情熱を込めて加賀の食をフィールドワークし、次世代に語り残したことが、大きな強みだったのではなかろうか。
 「武士の献立」には、たくさんのたすき掛けの包丁侍が、いそいそと芋を剥き、魚をさばく場面がある。この映画では、剣舞のような包丁の儀式や雉の羽盛りも出るような饗応料理場面を描く時間は意外に短く、大根をむいたり、米を研ぎ、それを炊いたり、という場面が、多めなのが面白い。きっと包丁侍達も「ことしの菜はみな高うて困る」「さりとて毎日芋では具合が悪かろう」などと会話しながら、役目に励んだことだろう。
 この映画のパンフレットは、先に紹介したように、「とても楽しい映画だった。夫婦と家族の物語だと聞いて見たんだけれど、それより前に、まずお料理物語として、すっごく素敵。」という新井素子のコラムを始め、料理がテーマの日本映画紹介やら、舟木伝内の紹介、加賀料理の話など、ちょっとした雑誌並みの内容の濃さである。映画は後から家で観る派という人もパンフレットだけでも入手しても損はないと思われる。
2013.12.15

ダレガツクル、ダレニツクル

料理は親やパートナー任せで、インスタントラーメンすら出来ないという三十代後半の知人がいる。パートナーの妊娠中も周囲の手を借りて過ごしたらしいが、そっちのほうが余程やりくりが大変そうだ。皿洗いや炊飯器の扱いはできるらしいのに、なぜ出来ないと公言して平気なんだと不思議に思っていたが、その人も福祉職で、このご時世である。やはり仕事でどうしても食事を作らねばならなくなり、目玉焼きなどを家で練習をしては現場に出ていると聞いた。
 昨日は居酒屋で「料理が難しくて自炊しない」という若い人が「メニューを決めてそれを作るのが大変で」とぼやいていた。直後「メシなんてあるもので作りゃいいんだよ」と料理自慢のお説教がメラメラ燃え上がっていたが、この人の場合、玉子焼きはできると言ってたからある程度スキルはあるのだろう。
 「料理ができない」と言う人は結構いる。本当にできない人から、「一通りはできるけど、これはできるといえない」というように目標値が高すぎる人までも同じように言いがちなのは、あれは一体何なのだろう。毎日弁当を作ってくる人に、「おいしそうですね」と言うと「いや料理が下手で…ブリの照り焼きとかいつもイマイチで…」などと答えられたこともある。自らバーを上げすぎだ。 
 映画「体脂肪計タニタの社員食堂」に出てくる栄養士も料理スキルが著しく欠けているという設定だった。あれはどこまでが実話なのだろう。体脂肪率40%の体脂肪計のメーカー、タニタの副社長が、学生時代から比べると激痩せして変貌した栄養士の同級生春野をスカウトして、社員食堂の食事を改善しようとしたものの、初っぱなから、ごぼうの笹がきができず、スタッフ達に呆れられるという一幕があった。しかし、彼女が立てる献立は太ってしまった人の心理に配慮し、考え抜かれたもので、周囲は次第に協力的になっていく。春野のダイエット理論によるレシピが、体脂肪計の売り上げにめでたく貢献したというが、現実の世界でもタニタのレシピは大変な売り上げである。モデルになった栄養士のインタビューを見ると、バンド活動などもしていて、ずっと食事づくりばかりしていたわけではないようだが、保育園の給食に関わったことが、後の食堂運営にも生きたと語っていることから、料理ができないということはなかったのかもしれない。
 ただ、スキルがなくても、今は学校を卒業すれば調理師免許を持つことも可能だろうし、栄養士の資格さえ取れたりする。タニタは一栄養士のおかげで社運があがったが、その一方で世間には、名ばかり栄養士、形ばかり調理師の手によって、どうしようもないほどメシマズな社食、給食もこの世には数多に存在する。コストとノルマだけ考え、食べる相手のことを考えない食事というものが。
 だからこそ、食べる社員のことを考え抜いて提供されたというタニタのレシピは、料理本の世界で一人勝ちしたのではないだろうか。
 テレビをつけたら、おりしも長崎の加津佐で、49年間学校給食を作ってきた給食のおばさん安永さんに、地域の親と子が感謝を伝えるという番組がやっていた。
 たった一人で始めた学校給食だという。地域では、おやつを買う習慣がなかった昭和三十年代。安永さんは夜遅くまでかかって、かるかんを作って出した。そして肉の入ったカレーの味も子ども達は安永さんから教えられた。現在も、給食ぎらいにならないように、一年生の最初の給食にはカレーを出すという。廃校に伴って給食のおばさんを辞めるという安永さんから地域の人に最後にふるまわれたのは、豚肉のカレーに皿うどん。親子二代で安永さんの味を惜しんでいるのは、何ともいい光景だった。
  2014.5.24