山口へ


  この日本に詩集を読む人は、実際どれくらいいるのだろうか―自身の詩集刊行前夜、私は「詩」「詩集」「詩人」などの記事で、何か参考になることはないだろうかと毎日、祈るような必死さでキーワード検索をしていた。


一ヶ月ほど検索を繰り返した頃から、私は、ある詩人について関心を持つようになった。 「詩を読む人は少ないからね」「詩集は売れないから」と繰り返し聞く世間の常識。そんな言葉が軽く覆るくらい、その人の詩集は毎日毎日誰かに求められている。それは、老いも若きもあまり関係ない。おまけに人々は口々に共感や詩人への愛をつぶやく。没して70年近いというのに新刊も絶えず刊行されるのは、泉のように読者が湧いてくるからだろう。嗚呼、驚異のロングセラー詩人!
その人は、中原中也明治40年に生まれ、昭和12年に30歳で没した。極めつきのの有名詩人だから、そりゃ検索すればひっかかるよと思うでせう。しかし、やってみなけりゃ分からないことだが、宮沢賢治谷川俊太郎も、そう毎日買ったの読んだのとツイートはされないのだ。
 

 夭逝したことは知っていたが、作者が生前に出した詩集が『山羊の歌』一冊だったということは、春先にコラムで読むまでおぼろにしか知らなかった。』それには中原中也宮沢賢治(『春と修羅』)について、「傑作は一冊で永遠である」というようなことが書いてあった。その、『山羊の歌』の苦心の末の出版の軌跡が中也記念館に展示されていると聞いてすぐにでも出かけて行きたかったが、今年はなかなか諸般の都合というものがつかず、気になりながら、ここまで来てしまった。


 ちなみに山口は萩にはかつて美祢線に乗って行ったことがある。あれは18キップの旅だったか。とにかくひたすら眠っていて、足を引きずり加減にした車掌さんが、列車の扉を閉めて回っていたことだけ、何故だか覚えている。ちなみに、夜行に乗ると明け方に「アサ、アサです」とアナウンスされて面白く思った厚狭も山口。フェリーを使うために下関に泊まったこともあり、実は通ってはいるのだけれど、ちゃんと来訪したのは、今回で二回目。しかし、今回もかなり駆け足ではあった。


新幹線の新山口の駅は昔は小郡といった。駅前のグランドホテルに泊まり、翌朝バスで湯田温泉に出かけた。乗り合わせたお客さんが、「山口は道はいいけれどバスや電車があまりなくて」と話しかけてこられ、国体が近いこと、こちらは道が大変良くなってる話、秋芳洞や津和野には行くべきだという勧めも受けた。 残念ながら今日は時間がないことを話していると、いつの間にかあたりは、温泉街になっていた。平地にあるので、住宅街から急に旅館が立ち並ぶ。


中也記念館は、中也の生家跡に建てられたという。旅館街にはあるが、住宅街に面してもいるので、午前10時は静寂そのものであった。
(つづく)