久女の句稿

小倉にある北九州文学館で杉田久女展が先月の25日まで開催されていた。久女については近年様々な研究本が出ているが、様々な句の生まれた縁ある土地に、まずは行ってみなくては、と思いたち、師走のある日、西に出かけた。車中では、岩波文庫から、復刻された虚子の『俳諧師』を手にしていた。見返しに子規や碧梧桐が出てくる自伝的小説とあったが、期待したような虚子本人のエピソードはなく、学問に飽きて、俳句も始めたもののさほど打ち込むわけでなく、のらくらしている主人公が、周りの俳人の悲劇を眺めているといった内容だった。碧梧桐が妻にしようとしていた女性と虚子が結婚してしまったことや、子規との交流もほとんど出てこない。続編も、上京した兄が慣れない下宿屋稼業を弟に勧められて始めたものの、生活苦のうちに死んでいく様子を、ちゃっかりイチ抜けした弟が淡々と語るというもの。さらけださない私小説という感じが退屈で、小倉までの車内は殆ど寝ていた。
小倉の駅はモノレールの発着場所が立体的に組み込まれた不思議な建築だった。長く伸びた歩道橋から 町に降りると昭和の香るアーケード街で、お菓子屋ではサンタ帽をかぶった女の子が何人も立働いていた。小倉城の前をずっと西に歩いていくと、北九州文学館が図書館に隣接して建っていた。道を挟んだ隣には松本清張記念館もある。
杉田久女展は、ノートや書簡、たくさんの写真など資料が豊富な内容だった。これは夫の杉田宇内が全部小原村に持ち帰った後に娘の石昌子氏により研究、整理されたものと思われる。久女というと、夫の宇内とも行き違いがあり、家庭的には不幸な人のように語られている。しかし、戦争を越え、小倉から愛知の山間に生活を引き上げるという中でも、久女の手になるさまざまなものが散逸しなかったということに夫婦の不思議を思う。
まず、 久女の資料で圧倒されたのは、源氏物語の原文や注をびっしり引き写したノートである。特に細かい解説はなかったが、その古びたノートにぎっしり書かれた文字を見ると、「向上心」という言葉が太字で思い浮かんだ。洗濯や繕い物、煮炊きに時間を取られる昭和初期。いつ、久女は勉強をしていたのだろうか。そして、 空襲のたびに久女が防空壕に持ち込み、晩年、娘に託した句稿が緑の表紙をつけて置いてあった。それは持ち運ぶには横長で、想像よりずっと大きなものだった。句集刊行は久女の悲願であったとは知っていたが、大きな草稿を抱えて必死に逃げたその姿を思うと、 自然に涙が出てくるのだった。
この展示は久女の写真もたくさん掲示してあった。小さい娘のそばで、微笑みながら何かに目を走らせている姿は子への愛情の深さを感じさせた。そして、孫を抱いた娘とその夫と共に写っている久女の写真は、頬もふっくらし、目も穏やかなのが印象的だった。  みすず書房から出ている中村草田男の回想記を読むと、虚子は晩年になるほど万事に平凡であることの良さを説いて、子規の追悼記念にも「子規も平凡を愛していた」と語り、それはおかしいと草田男に違和感を抱かせている。晩年の虚子は天才を見抜く力を持ちながら、それを自ら封印したように見受けられる。流麗で象徴的なものより、素朴な句を殊更に賞揚した時期があったのは、時節柄の危険を案じ、係累や弟子に影響がないようにと、危機管理を考えたのではないだろうか。師の人脈のおかげで、作風が警察権力に問われなかったという説のある草田男も「師は文学第一の人ではない」と回想録で批判しているが、久女も、そこが見えていたのではないだろうか。君子と化した師に、何度も序を頼んだことは哀切なことと語られるが、実はその依頼の中には、文学者として、今の姿勢はどうなのかという、師への問いかけもあったのではないか、と資料を眺めながら思うのだった。
久女の娘、石昌子氏の地道な資料研究のおかげで、研究者も増え、田辺聖子氏の小説にもなり、杉田久女の書籍は近年も次々と刊行されている。この展示の図録もかなり力が入ったものだった。文学館が刊行した久女の句集もあり、句集は小倉市内の書店でも取り扱われている。
翌朝、久女の句碑のある小倉飯店前の公園に足を向けた。繁華街にあるせいで交番の横の公園は樹もなく、空虚な印象だったが、碑の前には山茶花が咲き、僅かに彩りを添えていた。
花衣の句を眺めながら、優れた作品に宿る力を思った。本人の処世が下手 であろうが、時節の邪魔が入ろうが、読者がいれば、作品は残っていく。そして時が経てば経つほど、作品自体の持つ力ははっきりしてくるものなのだ。
結局「国子の手紙」は読めないままだったが、帰り道に虚子記念館に立ち寄ることを思い立ち、小倉を後にした。