「落葉降る下にて」から「寿福寺」まで

虚子記念館は、松林の公園近くの住宅街の中にあった。阪神の震災の跡ではないかと思われる取り壊しの跡や、陋屋がぽつぽつ残る川縁を歩く。昼食に訪れた喫茶店や、お茶を求めた駅前のスーパーでは、年配者が目についた。小倉ではコンビニでも居酒屋でもハングルと日本語を駆使して忙しく働く若者やにぎやかなグループばかり見て来たので、この地の静けさは一層印象的で、師走の風の音ばかり耳についた。
記念館では、新しく発見された虚子宛の芥川の句稿などが展示され、漱石久米正雄などの文人俳句が特集されていた。芥川と虚子は、虚子の息子年尾を通して私的なつきあいがあり、芥川は句作に対して余技以上の打ち込み方を見せていたようだ。虚子とはかなり年が離れていた筈だが、紹介されていた「句は人並みに苦労してゐる故、虚子と比較されてもよろしい」というような言葉を読むと、先達というよりライバル視していたようにも思われる。 小説に関しても「「俳諧師」は感心しないが、(それを早く教えてもらいたかったよ・心のぼやき)虚子の小説は本人も周りも分かってないが、なかなかのものだ」というような評価をしている。虚子が娘の死について書いた「落葉降る下にて」が高評価のようである。併設の図書室で探して読むことに決めたが、まずは「国子の手紙」である。図書室にはさすがに虚子の全集があり、「国子の手紙」はあっさり見つかった。「音楽は尚ほ続きをり」「小説は尚ほ続きをり」で見慣れた形の、引用を組み合わせて気のきいた内
容にしてみせる、いわばリツイート小説である。つまらない手紙
や句では成り立たず「獲物」がないと書けない小説だ。「国子の手紙」は読んだらさぞかし腹立だしいものだろうと予想していたが、「愛子もの」に 相似する形をこの作品にも見つけ、そちらに気をとられた。虚子は「虹」を出す前に愛子や母に読んできかせて了解をとっていることを「音楽は尚ほ続きをり」で書いているが、「国子の手紙」でも国子の娘に国子について小説を書くことを説明したというようなくだりをいれている。成立年代からいって「愛子もの」が評判よくなければ「国子の手紙」は書かれなかったわけで、無責任な現代の読者としては「虹」でやめときゃよかったのに、と残念に思った。そして、これも「愛子もの」に入る「寿福寺」を何の気なしに読み、芥川推奨の「落葉降る下にて」を探したが、なぜか見つからない。駅に向かいながら、ひとつ読めたのに、またひとつ気になる出てきちゃったよと苦笑した。
しかし、「落葉降る下にて」は地元の本屋に浪漫文庫が置いてあったことで、あっけなく読めた。虚子が中年になってからの作だが、芥川などの読者を意識してのことであろうか。子を亡くしたことを非情ともいえる筆致で書いている。高熱のせいで、子の知能に異常が出ていたことを嘆き、亡くしてほっとしたというような心境を書き、妻に冷たいとなじられたことも記している。そして山の温泉場で、亡くした子を自分で荼毘にする男に会って興味を持つといったくだりもあり、無常漂う作風というか、芥川だったら共感するだろうなという、材料が事実だけに、書き手の目に戦慄するところのある小説である。
しかし、この小説だけだったら、さほど感銘は受けないが、先に何の気なしに読んだ「寿福寺」とこの小説を並べてみると、子どもを亡くした衝撃のあまり、感覚が麻痺してしまった男親の姿が「落葉降る下にて」から立ち上がってくる。「寿福寺」も、それだけ読むと短さのあまり、そうは印象に残る一篇でもないが、この「落葉降る下にて」の後に置くと、老境に至って、やっと明らかにされる親の心境というものもあるのか、という感慨を抱かされる。
近年の虚子の小説というと「愛子もの」か、子規にまつわるものが文学資料的に紹介されている扱いである。これでは、「小説」に人一倍こだわっていた虚子としては、死後も無念な ことであろう。
しかし、虚子については、特に関心もなかったのに、最近は会う人ごとに、森田愛子のことや杉田久女のことにからめて、虚子の小説のことばかり喋っていた。別に虚子自体は好きな作家というわけでもないのに、思えば不思議なことである。そんな折、何の気なしに年譜を見ていたら、いと夫人は10月18日生まれで、自分と同じ誕生日であった。星回り故に惹きつけられたのかと笑ってしまう。