『星を撒いた街』に思う


 出会うタイミングで、印象が違ってしまうのは、本も、人も同じなのかも知れない。
上林暁『聖ヨハネ病院にて』が、少し前に本屋に並んだ時、ちょうど杉田久女の伝記や高村智恵子に関する本を読んでいた。精神疾患に理解が進んでいない時代の病院の、患者の治癒を目指すでもなく、死なない程度に生かしておくという在りようは、読んでいて、どうにも心がざらついた。精神不調は、今で言うライフイベントのつまずきや、周囲との不和、手を尽くしても治らない病、貧困など、外的要因もあって発症するものなのに、時代が進んでいなかった故の、一般的な考え方とはいえ、「世間の目に耐え、こんなに看病しているのに、妻は…」という書きぶりの夫君達には、「世間知らずの才媛だから好きになっといて、貧乏の枠に閉じ込め、破天荒の始末に追い使うからそうなるのはあたり前だ」と、今時のオバサンとしては、文学を離れまくったとこから、どうも言いたくなり、上林の本や作家にまつわる話は面白いと思うものの、「病妻もの」には個人的偏見が強くあった。
今回、上林の『星を撒いた街』を夏葉社さんが出されると聞いて、『昔日の客』にまつわる作家が甦るとは、また素晴らしいことだと思ったが、上林暁…代表作として「病妻もの」は入るだろうし、それを、読んでどうだろう、私小説は、読者を選ぶから難しいなどと思いを巡らせていた。
7月25日に神戸、海文堂で先行発売が予告され、夏葉社さんのツイートで、作業の進捗を知り、わくわくと日々を過ごしていた時、定期健康診断の結果が返ってきて、婦人科の病気が疑われるから検査せよということで、それから三週間ほどあちこち病院にかかり、『星を撒いた街』を手にしたのは、最後の検査が終わり、当面は経過観察という結果が出た日だった。
我ながら、無茶なことをと思いながら、京都に走っていって手にした本。実物を手にしてこそ、色合いの妙を楽しめる装丁。
 そして、一読。「花の精」を読みながら、これが、同じ妻を描いた作品なのだろうかと不思議に思った。「晩春日記」の、退院した妻の顔を夫が剃る場面は、夫婦の今と若かりし日の匂うばかりの愛の情景が目に浮かんで切なくなった。「病妻もの」とは連作ではあろうが、一部を読み、分かるものではなかったのだ。どちらの作品でも、妻の不調は、自分の過去の生活のせいであることに作者は悔いている。特に「花の精」にある月見草に寄せる妻恋いのやるせなさは、どこかユーモアのある旋律から時々、極めつきに悲しいメロディに転調する曲のような趣があった。
 山本善行さんは、上林の作品を、いつも いつも繰り返し読んで、いつか自分の手で作品集を編むことを夢見てきたと語っておられた。その積年の上林熱を「青春自画像」の主人公のような青年が形にした。別に聞いたわけでもないが、この一編は撰者から夏葉社さんへのメッセージが込められている気がする。
 電気を消した部屋で棚に置いた本の背が明るんで見えた。そこに、月見草を挿したかのように。