かつては誰もが織っていた
下鴨の古本市の帰り、ガケ書房の古本棚から徳廣睦子『手織りの着物』(1986筑摩書房)を手にいれた。『星を撒いた街』の作者が、家族からどう語られているのか興味があったからだ。 上林と妻、両親の姿が、身内贔屓ではない愛情をこめながらも、独特の距離からこの作品は書かれている。
〈兄の生前、母から紬の着物が送られてきたことがある。青緑の地に、細い鼠色と鳶色の格子であった。 それには、母が鉛筆をなめなめ書いたらしい添え書きの紙切れが挟んであった。「このきものはさだちゃんのためにおったがじゃけん、ぬうてきせちゃってくれや。ちいとでも、さだちゃんのなぐさめになりゃあ、うれしいがじゃけん、ねまきがわりにでも、きせちゃってくれや」
母の病んだ姉に対する、最後のいたわりの気持ちでもあったろう。終戦直後のそのころ、兄嫁は栄養失調のため衰弱がひどく、ほとんど寝たきりの生活になっていた。着物に仕立ててももう着ることもあるまい、という思いもあったし、病院に行く度に、敷き布団がボロボロになっていたのも気になって、私は敷き布団の皮に仕立てた。それを病院に持って行き、布団に被せた。母の手織りの布地だということを兄嫁に話しても、格別うれしい風でもなかった。病人から見れば飢えていた時代、食べ物の方がどんなに嬉しかったであろう。
虹彩炎で目も見えなくなっていた兄嫁は、両方の手で布団のすみずみまで撫でてから横になった。私が帰るとき、「ありがとう」と言った。兄嫁は、二、三ヶ月後、この布団の上で息を引きとった。」
「病妻もの」に描かれた悲惨のうちに迎えた死。しかし手織りの布に包まれてたという事実を知らされると、また悲しみのいろあいが変わってくる。
縞帳を持っていたという上林の母は、十歳頃から機織りをしていたらしい。睦子さんも女学校を出た秋にに、母の手ほどきで紬を織りあげたという。
睦子さん自身は兄の助けとなるために、上京して機織りとは離れたものの、母の織った着物には、兄のと同じように愛着を持ち、上林が死去した後、母が兄のために織った着物で最後の創作集、『半ドンの記憶』の特装本を造った。
たくさんの着物を織り上げた後、年老いた母は織り機を壊し、風呂に焚いたという。〈私は残念で仕方がなかった。また寂しくもあった。母から見れば、機織りは心の寄りどころでもあり、支えになっていたように思えた(中略)しかし、母から見れば、織れなくなった機を身近に置くことは、なお寂しいことだと思ったのだろうか。機が炎となり、煙となって消えて行ったように、母の時代も終わった、という気がした。〉
父の陰で控えめに生きて家内の安寧を願ったこの母は、自らの賢さや知恵を人に見せないようにしていたらしいが、織った着物には、人柄すべてが現れていたようだ。
この本に、養蚕のことが詳しく出てきたので、昔、祖母が季節が来ると養蚕所というところに通っていたことを思い出し、帰省した時、父に機織りのことを聞いてみたところ、昭和30年頃まではどこの家でも機があったそうだ。その後、50年頃までは、紡績工場に買って貰うために糸を取っていたようだ。昭和21年生まれの母が「また辛気臭い話を聞きたがる」と言い出してあまり詳しく話は聞けなかったが、なんというか、自分の手を使って何でも仕上げる父と、それを汚れると言いたがる母(買ってきたほうが早いという)、知りたがりだが、不器用な自分を並べると、こじつけめいてはいるが、機が消えた昭和の縮図だなと思えてきた。
職場の仕事の関係で、「さおり織り」という福祉施設に普及している機を使ったことがあるが、教えてくれた人のおかげで、半日かかってショールのようなものを織りあげた時は感動した。 その後、整経なども覚えて、人が織る手伝いもしたが、十年も経つと、今やスペースも時間もないため、機もなくなり、自分もやり方を忘れてしまった。 しかし、糸かけが面倒だというものの、たぶん日常の中で少しずつ覚えていければ機というものは身につくものなんじゃないかという気持ちはある。
今や織物をしようと思えば、人里離れた伝習の場に行くか、昼間に時間がある人しか通えない教室に行くしかない。そういう場所は、習得の目的や、礼儀作法も問われるし、誰でも行かれる訳ではない。そんな大層なことではなく、ストレス解消に、とか、赤ちゃんの肌着は自分で紡いだもので織ってみたいというような人に、もっと身近に織りも織り機もあればいいのに。かつて岐阜や一宮は繊維の街と呼ばれて、裁縫屋さんが多く、内職の人もたくさんいるが、今は腕のふるいどころもないようだ。最近、コンビニで靴下を買うと「チェコのおばあちゃんに教えてもらった織りです」みたいなことが書いてあったが、わざわざ東欧のおばあちゃんを借りなくても、魅力あるものは、鷺山のおばちゃんや、則武のおばあちゃんの中にある、ってことはないのだろうか。(出した地名は適当です)