Twitterに登場した話題の人が、「ヒロさんにとって本とは何ですか?」と聞かれて「恩人です」と答えていた。今、自分にとって本とは何だろう。

生きることへの関心をかきたてる薬みたいなもの、だろうか。私は厳密な意味での愛書家ではなく、本をどんどん買っては、人にあげたり生活に困って手離したりする。「本」という詩に、「手にしたものは本しかなかった」と書いたが、財産とかいう意味ではない。子ども時代から今まで、唯一続けてきたことが、たまたま本を読むことだった。

中学生時代、本と雑誌のために、月に二千円は絶対欲しかった私は、お年玉以外、小遣いを渡すという概念のない家庭にあって、どうも苦肉の策として、投稿を始めたらしい。
ひとつの雑誌を丁寧に読めばいいのに、スクリーン、ロードショーに始まり、落合恵子さんの小説目当てにnon・no、ニュータイプ、すばる、月刊コバルト、、ショートショートの広場、月刊カドカワ、料理フレンドメル、手芸フレンドピチ、等々に投稿をした記憶がある。高校になってからは創刊されたオレンジページ、OLIVE,、JUNIE、鳩よ!買った文庫の書き手を追ってクロワッサン、漫画誌ASKA花とゆめファンロード、文芸誌も、海燕、群像、文学界などなどを読んでは投稿し、合間にラジオにも葉書を送り、そのわりには小説家や詩人になりたかったという記憶はないのだが、それなりの対価を得るために書いていたから、そりゃあ昔は詩人にもなれただろうよという気はする。

後にバイトで稼ぐようになるのに比例して、詩や文章は書かなくなったが、ようやく、行きたくて行けなかったところには、行けるようになった。その頃にTwitterがあればよかったのに。今は稼ぎもなくなり休みも少なくなり、少し見聞が狭くなっている気がする。詩を書き始めたら余計に貧しくなったようで恐ろしいけれど(笑)

昨年のこの頃は、マックとコメダで毎日詩を書き、とにかく『二月十四日』を仕上げることで頭がいっぱいだった。そして二月、龜鳴屋さんの尽力で詩集が仕上がった時の嬉しさ、そして売らなければいけないという緊張感最高潮の気持ちは忘れがたい。
 二十代の頃はそれなりに知人もいたが、転職をするたび、私は生活を小さくしてしまった。今さら誰に本を宣伝できるのだろうという途方にくれる気持ちもあった。
 しかし、版元さんも趣味で仕事をしているのではない。それは職業人としてよく分かっていた。
年末にTwitterに出会い、冬の間中、毎日毎日夜中の二時までフォローを増やし、それはまるで山登りのような、砂金堀りのような地道な作業だった。自分の詩集の発売時は今のようにフォロワーさんはいなかったので、詩集を214冊プラスアルファー全部読者を得るには五ヶ月ほどかかった。 それでも無名な詩人にしては、異例の売れ方だったと聞く。すべては、京都の善行堂さんに、置いていただけたことと、岡崎武志さんに書評で取り上げていただいたおかげである。

そうして、二月、三月、山にとりつくようにして、告知していた最中に、『海炭市叙景』のクランクイン、文庫化に出会い、四月にはTwitterで『レンブラントの帽子』を真夜中に作っている夏葉社さんに遭遇した。「これはいいものだけれど、どうやって広めよう」という分水嶺で、皆に出会ったのだ。だから今でも、TwitterでついRTが多目になってしまう。もう今は、別に自分が発言しなくても、たくさんの方に支持されている「海炭市叙景」と『レンブラントの帽子』だが、当初は「これは、私しか読まないだろう」「これはたいして世間が認知しないのでは」という評判で始まった。私の詩集も同じような評価であり、「そんなに焦って売れるものでもないしな」と分かってはいた。しかし、一方では目の前の人が感動を伝えようとしていて、自分に気持ちが伝わり、そして読んだらより良さが分かるのに、これが届かない筈がないではないか、という確信もあった。
自分は嵐じゃないんだから、100人くらいのフォローで伝わらないと、泣き言を言ってたらいけないだろう。ギアチェンジしてすぐ自分の詩集がなくなり、何だか、心のどこかが、産後うつみたいになっていたが、10月に発売なった『海炭市叙景』は三刷、夏葉社さんは『昔日の客』を出して増刷。そして、私たちファンが待ちに待った山本善行さんの『古本のことしか頭になかった』もこのたび増刷が決まった。皆さんの活躍に気持ちが改まり、また自分も次の詩集をなんとか出す気持ちが湧いてきた。
雑誌を読んで30年経ったから思うのだが、30年前は文学通しか分からなくて、あまり主流じゃなかった文学なのに、今やそっちが王道であり、軸になってきたものだから、そりゃあ読みどころが分からないから、今の文学はある程度しか売れないよと思うところがある。en-taxi1984年特集があり、島田雅彦高橋源一郎が来し方を語っていたけれど、本当に、学校の図書館に入らないくらいマイナーだったことを思い出す。国語教育が滅茶苦茶変わったわけでもないのに、分かったようなふりをしなければ読めない文学を受け入れる読者層が、今それほど厚いとは思えない。理想の読者づくりも大事だが、現実の読者のほうを見ながら本を出すことも、また大事なことではないだろうか。 それは、詩集にしても同じことのように思える。町の本屋には物故者の詩集ばかり棚に賑わっているのはなぜか。
今年は、ポプラ社百年文庫にしても、ちくまの復刊にしても、面白い本がどんどん出てきている。文学を「体験したい」という読者の本当の要望が、今、何かを 動かしているのだと、本を買いながら、その熱気を日々感じている。