虚子の小説を読む  ヒロインを辿る旅 三国

 虚子が杉田久女を題材として書いた小説に「国子の手紙」という一篇がある。
「私」宛に優秀な句を寄せていた女性が、次第に常軌を逸した手紙を夥しく寄越すようになり、偏執的な振る舞いをみせるようになった後、精神の平衡を欠いて死んだと聞き「私」は、やはりそうだったかというような感慨を持つというような筋書きである。昭和23年に『文体』に発表された。久女が、腎臓疾患によって55歳で生を終えたのは昭和21年なので、没後まもなく書かれたものだ。
 久女に関するさまざまな文献を読むと、この小説と、松本清張芥川賞受賞後第一作「菊枕」が書かれたことで、久女の名誉は大いに傷つけられたという項が必ず出てくる。モデルへの名誉毀損は当時、泣き寝入りするより他なかったのだろうか。虚子も清張も書いたものに対しては、「あれは小説である」という発言を通し、その態度が遺された人々を後々まで傷つけたようだ。
 そして今日、久女、そして虚子も清張も没して久しい。時を経てから、その相克を知った者としては、実際に小説を読んでみないことには、作り上げられたといわれる久女像がどうだったのかということからして分からない有様だ。清張の「菊枕」は短編集などに収録されていてすぐに読めた。「ぬい」という女性が、類型的なヒステリー妻に書かれており、後年の取材力を思うと、なぜ清張は遺族に話を聞きにいかず、地元の俳人に聞いた噂話程度で書いてしまったのだろうか?と疑問の浮かぶ作だった。
 そして、肝心の虚子の小説である。俳句について著したものは文庫でも読めるが、小説となると、そんなに手軽に手にいれて読めるものでもなかった。これを読もうとしたことが、今回の旅の始まりだった。

 近所の市立図書館分室には虚子といえば俳句関係のものしかなく、本館収蔵の文学全集に小説があるというので出かけたところ、俳句に加えて、「斑鳩物語」「風流懺法」「虹」「愛居」「音楽は尚ほ続きをり」「小説は尚ほ続きをり」が収録してあった。後半の四篇は、三国の俳人、森田愛子の追憶が書かれており、「愛子もの」とよばれる。「虹」は発表後、川端康成に高く評価されたらしいが、読む人によって異なる印象を持たれる作品らしく、富士正晴高濱虚子』(角川書店)では、べたべたに甘いと片づけられている。
 「音楽は尚ほ続きをり」に、目を通していた時、俳誌「花鳥」に載せられた「愛子の頁」からの引用とした部分に「あすよりは病忘れて菊枕 虚子」という句があることに気がついた。句を聞いた愛子は「私はぎくりとした。快くならねばならないと思つた。前の日もお別れの日にも「きっと快くなりますからね。」とぢつと私を見つめて予言の様に云つて下すつた先生のお顔を、苦しくなると思ひ出して拝む。」などと書いている。この小説は「国子の手紙」が書かれた前年に発表されている。それもそのはずで、愛子が29歳で没したのは久女の死の翌年、昭和22年である。久女の死の年、虚子はそのような句をなぜ愛弟子になぜ与えたのだろうか。

 
 越前三国には、日本で初めて造られた西洋式の防波堤がある。トリックアートの先駆者エッシャーの父、エッセルが造成に関わったそうだ。そのエッセルが建てた小学校を模したという立派な洋風建築が三国の成田山の近くにある。龍翔館といって、当地に縁ある文学者が紹介されている。高見順三好達治と並んで森田愛子・伊藤柏翠のコーナーもある。また、この建物の屋上からは雄大九頭竜川と、銀鼠色の日本海を望むことができる。突発的に旅に出るのはいつものことではあるが、虚子の小説を読み込むうちに、森田愛子の人となりがにわかに気になり、晩秋、三国への日帰り旅に出かけたのだった。