佐藤泰志、復活

 1949年4月26日。存命であったら62歳。佐藤泰志が自ら生涯を終わらせたのは41歳の10月。未完だった『海炭市叙景』は死の翌年に刊行され、ながらく絶版になっていた。
20年経ち、命日近くに文庫が復刊したのは、驚くべきことだったが、きっかけは昨年3月に遡る。映画が、もうクランクアップするというのに原作の刊行はなかなかすすまず、その交渉も当時は実行委員のHさんがボランティアでされていたように記憶している。

2007年にクレインから『佐藤泰志全集』が出され、各地で原作や作家を語り合う会が催された。それが映画製作にも繋がり、潜在的佐藤泰志ファンは無数に居ると思われるのだが、しかし、その実績があってもなお、新しく刊行するのは難しいとしか答えが返ってこないということだった。後で分かったことだが、佐藤泰志に関しては、映画人、編集者など多くの方が出版社に復刊の相談をしておられたそうだが、やはり「難しい」と言われるばかりだったという。確かなことにしかお金が出せない時代、そう言われるのは当たり前なのだろう。
Hさんは図書館員としてこつこつ仕事をされている方で、堅実な考えを持った方である。本当に佐藤泰志の作品が好きでずっと読み継いでこられ、そのつながりで映画化に関わられた。当初、秋に映画は公開と決まったが、原作が知られないままとは…
 このブログの2010年4月14日『海炭市叙景』の文庫化にも詳細は書いてあるが、2010年3月21日12時18分10秒に、Hさんからいただいたツイートをここに再掲させていただく。
 
 クレインさんが編んでくださった『佐藤泰志作品集』には収録されているのですが、彼の作品は芥川賞候補5作(うち三島由紀夫賞候補一作)ともに絶版、文庫化もされていません。○○社さんの編集者ツイッターにいませんかね?新潮社さん、河出書房新社さんにもご検討いただけたら…


 これは、自分一人で読んでいるのは勿体ない、それをHさんに伝え、改めて投稿された熱意のツイートが、書評家の豊崎由美さんにリツイートされ、小学舘の村井康司さんの目に止まることとなった。2010年4月9日の北海道新聞には、このことが、「きっかけはツイッター」として伊藤美穂記者が記事にされている。
後半を引用させていただく。「海炭市叙景の映画の製作実行委員長を務める市民映画館「シネマアイリス」代表、菅原和博さんは「映画制作の目的は、函館の財産である佐藤作品の再評価。今後、復刊の動きが盛り上がればうれしい」と話す。静岡県で暮らす佐藤泰志の妻、喜美子さんも「長く読まれる作品になってほしい」と喜んでいる。」

 10月に刊行された文庫には、映画でいうクレジットのようなページがあり、佐藤喜美子さんの名前とともにHさんの名前も記してあるのだ。この心遣い、感動せずにはいられない。

そして佐藤泰志の長女、朝海さんの談話が最近、道新の朝刊(酒井聡平記者)に掲載された。

「主婦の朝海さんは、今振り返ると、「父が生きていれば」と思ったことが一度だけあった。大学卒業後の進路に悩んだ22歳のときだ。作品の中にその答えがある気がして古書店を回った。だが、本は見つからず悲しさだけが残った。あれから10年。『海炭市叙景』に続き、『移動動物園』など4作品が4月以降、小学舘などから相次いで復刊される。父の本が日本中の書店に並ぶ。そのことがうれしくてならない。」

 佐藤泰志が自身を追い詰め、家族を苦しめてなお書き継ぎ、かなりの作品数を残したにも関わらず、なぜ作品が残らなかったのか…ちなみに佐藤泰志が亡くなったのは、90年なので、そんなに昔のことではない。 これからという作品があり(『海炭市叙景』は未完である)、才能があっても41歳で佐藤泰志は命を断った。しかし、彼の遺した物語の復活を、目撃する人はこれからもっと増えていくに違いない。在りし日の姿を知っている方にはもっと語る場があればいい、と切実に思う。
海炭市叙景』を読むと、「どうやってでも、生きてみな」という声が、聞こえてくるような気がする。私も41歳。生死に惑いを持つ年になったからかもしれない。文庫は今、7刷、6万部。4月7日には『移動動物園』が、再び小学舘文庫から、そして河出書房新社からも『そこのみにて光輝く』も刊行、そしてまだまだそれぞれから刊行が続くという。
 佐藤泰志、復活。その時が来た。皆が待っていた作家は、あなただったのだ