四十九日は誰がために

昔、住んだことのある瑞浪がロケ地と聞いて、上映中の「四十九日のレシピ」を観に行った。
伊吹有喜の原作はロングセラーになって、ポプラ文庫に収められている。以前に読んで、物語の舞台を、愛知の海沿いの街としてイメージしていたので、瑞浪という山間で映像化されたのが意外だった。
パンフレットによると主人公百合子が東京から戻って過ごす実家を「家の目の前に生死の境目のメタファーとなる大きな川がゆったりと流れていること、そして家から遠くない距離に印象深い橋が架かっていること」と想定し、3ヶ月以上の時間をかけてロケ地は選定されたという。
 清流と呼ばれる長良川を見慣れて育ったので、瑞浪から土岐にかけて流れる土岐川は、正直、陶土の影響か白っぽい濁りがあるので、あんまり美しいとも思わず、川のそばには行ったことがなかった。
地元の人にしたって、川のそばに行くと言ったら化石掘りか花火か左義長の時ぐらいではなかろうか。
映画「海炭市叙景」で函館を「海炭市」という架空の町として魅力的に撮っていた近藤龍人の撮影だけあって、その見知った筈の土岐川、そして東濃の風景が、まるで別物のように感じられた。特に 百合子の実家近くの川の眺めには、なんともいえない優しい空気が漂っている。
 夫の愛人に子どもが出来たために、里に帰ってきた百合子と連れ添った乙美を亡くし、心残りでいっぱいの父、良平。乙美が遺した「暮らしのレシピ」という生活の知恵カードに四十九日は賑やかに宴会をしてほしいという言葉があったために、生前の乙美と繋がりのあったイモとハルを助っ人に、親娘はぎこちなく言葉を交わし、動き出す。
 原作は、最後のほうになるほど、ファンタジーのようになっているので、大事な人を亡くした後のグリーフワークについていろいろ思いが膨らむ作品だが、映画のほうは、時間の制約があるなか、原作の印象的な台詞を凝縮して入れてあるせいか、「子どもがいない人生でも、生きていれば誰かに何かを手渡していくものだ」というような悟りが、様々な人の口から何度も語られる。
 今年、国の不妊治療に対する補助が、39歳から43歳に延長された。原作者の伊吹有喜は1969年生まれ、主演の永作博美も1970年生まれだからか、不妊で悩む人々のイタコになったような永作のリアルさが、前半、印象に残った。例えば、回想シーンの、夫が犬を買ってきた時の「(子どもができないからって)犬なんかいらない」という表情、夫の愛人の子どもに串のついた食べ物をあげようとして、愛人に止められ、「小さな子に串付きの食べ物をあげちゃだめなんだ」と呟くところ、継母である乙美の人生を振り返って、百合子が「子どもを産まなかった女の人生は、産んだ人より余白が多いのだろうか」という場面など、44歳、未婚、子無しの自分などは、どんな顔して見てたらいいのやらという、映画を観ていて困った気持ちになるのは、今回が初めてだった。
 この映画は、粉もののお菓子の著書が人気の、なかしましほが料理を担当している。なるほど、乙美が夫の良平との出会いの鍵になる肉まんが、とても美味しそうだった。ちなみに『四十九日のレシピのレシピ』がポプラ社から出ていて、映画に出てくるコロッケパンやちらし寿司の作り方がばっちり載っている。
 かつては老人ホームに勤め、亡くなる間際まで、依存症に苦しむ女性の自立支援を手伝っていたという乙美の知人を、赤座美代子が演じていて、「自分だって子どもはいないけれど、人は誰でも、誰かのジャンピングボードとなって、次の人を前に飛ばしてあげるという役割を持っている」という話をするところがある。うーん、そんなことを考えにいれてないから、口を開けば愚痴や不満ばっかりなんだよ、自分…と感慨深く受け止めていたら、映画は、最後の最後で急展開が待ち受けていた。原作はなだらかで、読者が納得のいくラストのように感じていたが、映画で同じことをすると、驚かされるというのは何故なのだろう。
 そうそう、瑞浪はやたら踊りが盛んな街だった。珠子役の淡路恵子が四十九日の宴会にハワイアンで乱入していたが、瑞浪だったらあまり不思議はない。この映画、土地に引き寄せられて出来たんだなぁと思いながら、安藤裕子のアロハオエに聞き入った。 
2013.11.16