映画「海炭市叙景

くぐもった声が聞こえ、「DON'T WORRY」と字幕は滑っていった。冬の終わりの陽射しだろうか。画面の猫は、おばさんに抱かれ波打つように輝いていた。
 この光景は見たことがある。これは絶対あの人だ。登場人物が煙草をのむと、途端に知り合いの誰かに似てくる。特に猫を抱いたトキさんは、学生時代から二十年通った焼き鳥屋のおばさんに、猫好きも煙草好きも瓜二つなのだった。
 原作の、トキさんが描かれる章は、都市化にさらされる家族物語のような雰囲気を持っていて、そこには老人の孤独は薄く、命のしぶとさに筆が割かれていたように思う。今は遠方に住むおばさんとミイのことを思い出したのは、映画独特の寂寥感故であった。 
 映画には、縁薄く生き、家族と距離があり、自分の心を翻訳できない口を持つ人物がたくさん出てくる。ガス屋の社長に、妻を疑うプラネタリウムの技手に、それぞれの息子達のたたずまいに、全部に覚えがあるような気がして、そのリアリティに息をつめて観ていた。泣くどころでもなく、終わると心が剥かれて痛いような、一方で、何かを葬ったような気持ちがしばらく続いた。

 熊切和嘉監督の前作について、埼玉の市民の協力を受け大変な低予算ながら好評という記事を、日経MJで読んでいた。日経だから費用のことを細かに追って、予算的なやりくりが主眼に書かれており、撮る側の状況はどうなのかと思われたが、それでも作品は好評だったとか。その熊切監督だとは知らぬまま、ネットで見つけた型破りなオーディションに興味を惹かれ、期間中からこつこつと更新の続く実行委員のブログを読み、ずっと公開を楽しみにしてきた。

 そして、偶然、京都駅シネマの英字幕つきの特別上映の情報を知り、当日券しかないというので、駆けつけた。東京では立ち見も出る盛況ぶりだった初日だけれど、関西ではまだ宣伝がすすんでいないせいで、驚くべき人の少なさだった。 その会場で観たからか、より、映画の世界が強烈に迫ってくるような感覚がしたのだろう。

一月には、京都みなみ会館で上映があるそうだ。ガケ書房さんが提唱されて、「海炭市叙景」「森崎書店の日々」の上映にあわせて、一箱古本市、そして市内の本屋さんを廻るスタンプラリーなども行われると聞いた。プラネタリウムの技師役の小林薫は、あまり知られていないようだが京都出身であり、熊切和嘉監督は、大阪芸術大学を経て映画監督になっておられる。 ゆかりある関西で、ぜひ多くの方に映画を観ていただきたい。
映画の内容を人に話すと「関西では難しい…」と言われてしまうが…実は北海道公開にあたっても、東京公開にあたっても、「このような地味な映画は集客は難しい」と話をしてみた人は、口をそろえて言っていたので、今に始まったことではないのかなと思う。
 しかし、シネマニラ国際映画祭ではグランプリと最優秀俳優賞受賞、つづいて国内でも受賞が続いており、Twitterでも毎日多数の人が入れかわり立ちかわりツイートを残している。原作も六刷、五万部。宣伝費も少ない中でどうしてこのような奇跡的な伝播が起きているのか。観た方、読んだ方が、何か言わずにはいられなくなるような、記憶を揺さぶる力がこの映画にはある。
 「海炭市叙景」(かいたんしじょけい)は、今年になって様々な形で再評価された。原作も映画もまだまだ広がる可能性は充分にあり、今の状態はまだ船出したばかり。2010年、私の映画ベストワン『海炭市叙景』。 2011年もこの作品の行く先を見届けていきたいと思っている。