詩集「風来坊」を読む3

岡崎武志さんの詩集は総タイトルが「風来坊」で、(1 )から(8)まである連作詩。「あのころのぼくは若すぎて」と題されたあとがきには、「ひとに読んでもらう、というより、なによりまず自分を救助するために詩を書いていたのだった」と詩作当時の心情が語られている。懸命に、自分の言葉を掬いあげようとしている作者のもがきを見て、読む側は、過去に置いてきたあの必死な季節に呼び戻される


(7)

おまえに今度 逢った時にいってやる言葉を用意していて
忘れてしまった


あれは何だったっけかなぁ“渓”の例えが
でてきたような気がしたが

何で忘れたのかなあ


この前送ったハガキに
書きつけた花の名は
まだ憶えてる
ヤマアジサイという
かれんな高山植物


瀧のある村で
地元の人にではなく
東京から来ていた受験生に教わったなんて
おかしな話だ


おれはこんなところまで来て
日々記憶力を失いつつあるが
忘れるっていうことは
(ここだけの話だが)
いい気持ちだなぁ 実に うん!


忘れて忘れて忘れきったころ
頭の中が透明になって
バックの風景が そこだけ透けて 映し出される
そんな想念に魅せられて
ついでに


おまえの顔まで忘れてしまった



最後の行は、30ページに一行だけぽつんと配置されています。


「 お前の顔まで忘れてしまった」

うーん、これを加藤健一とかに朗読されたら、走って洗面所に行かないと号泣だ。
この詩を書いたのは岡崎さんと分かっていても、途絶した恋の体験がある者が読むと、遠い日の思い人からの懺悔が届けられたように響くのではないだろうか。
激しい感情のやり取りがあったわけでもなく、納得がいくような語らいもないまま、時に隔てられた恋があり、いつも忘れられる身は辛い。しかし、ここに描かれた人はえらそうに「忘れた」と言葉を重ねているわけではないのだ。忘れなければ生きながらえていけない寂しさが、すんだ虚空を吹きすさぶ。
まさかそんなふうに思ってたなんて、今更知っても遅いけど、とか相聞歌が書きたくなる詩だ。
「好きだけど、忘れてあげるのも大事に思う気持ちのうち」ということを私はこの詩で遅ればせながら、気がついた。相手が、きっと良かれと思い、一歩ずつ静かに離れていったことに、納得のためのドラマもないことに、「音信不通なんて姑息な手を使いおって」と思いだすたびに、メラメラと長らく納得がいかなかったが、もっと早くこの詩に出会っていれば、忘れるのにこんなに努力は要らなかったのに。
さて、たいへん主観的な鑑賞で詩の味わいを半減させてしまったかもしれないが、この詩は一人で読むのはもったいない。男心が分からない女子はすべからく読んでその時(?)に備えるといい。
連作詩を、好きなところだけ引用したので、この詩全体のユーモアの部分は触れられなかった。日本の詩では、恋愛詩なのにギャグを自然にいれるとか、苦悩の一方ダジャレを書くとかはタブーなのかあまりみないが、韓国、中国、英語圏の詩を読むと、真面目な世界に急に「え!こう例えるか」という黒い笑いが詩に持ち込まれたりする。
得難いセンスのせっかくのこの岡崎さんの世界、山本さんが英訳・仏訳されたらどうでしょうか?(宿題の倍返し笑)世界に増やそう『風来坊』ファン!
詩は捨ててもついてくる出自みたいなものじゃないでしょうか。二十年先、三十年先、どうか時が来たらまたいつか見せていただきたいと思います。詩集をいただいたことをほんとうに感謝しております。