伊藤茂次詩集 ないしょ

 『伊藤茂次詩集 ないしょ』より

  休日

目が覚めたら
すべてを忘れていた
毎日のくだらぬ
私のつぶやき
私がわたしに
はずかしいおこないの連続を


鈍感な冬の日曜日
ストーブの火が
ゆるやかに
燃えている
女房も
今日は苦情の言葉を
忘れている
仕方のない生活の姿勢の中で


白い雲が
少しずつ風に
おくられているのを
窓ごしに見ながら
私はみかんの
皮をむき口にほおばった


もう二度の食事もしてしまった


何も動かすことの出来ない
置き物のような一日だった
あとは酒をのんで
あくびをしたらおわり



 冬の室内のぬくもりのような、それなりの幸を味わう男の姿がここにある。みかんの味は、平穏の象徴とも読める。しかし、後に妻は病を得、この世を去る。



 自分のこと

死んだ女房に
だらしのない男だってしょっちゅう怒られていたもんだ
煙草も酒も制限され
市場へ買い物につれていかれ
女房の後から従いて歩いた
人混みの中ではぐれてしまい
お互に首をのばしてさがし合ったその時もおこられた
僕の方からおこるのではなく
女房の方からおこるのだから
僕はだらしなくなってしまうのだ


女房はおこって悲しんでガンで死んだ


僕はだらしのない男でもなく
かいしようなしでもないような顔で
女房のこつこつためた貯金をおろし
飲みに出かけ食いに出かけ
女にもてようと思って出かけるのだが
はかばかしくいかない中に
金がなくなってしまった
若い女と二三回つきあったが
人違いでもしたようにあっさり立ち去られてしまった
とんちんかんな僕の欲望はあらゆるところで的がはずれる


僕には見えないが他人には見えるのかしら

 
 巻頭の詩は、正直すぎて読む者は辛くなる。病の妻を働かせるしかない甲斐性なしの男と自分を認め、妻を失った痛手も認め、そしてまだ見ぬ新しい女性への欲望も正直に晒しており、読んで心地良い詩ではない。言葉もさほど衝撃的ともいえないかもしれない。しかし、他の作品と併せて繰り返し読むと、「生きるって、あーあ」と普段うっすら感じている痛手、辛さが作者のぼやきと共にクリアになってくる。自分の抱えている辛苦を焙り出してくれる不思議な詩集だ。



 姿勢

いなり寿しやばってら
を酒肴に
おかきやら南京豆
ぐいっと酒をコップにあけ
ビールをコクコク
こんなことをしたい
この頃つくづく思うようになった
アパート代よ更新代よ
俺はますます困窮するが
負けるものか寿し食いねい
俺の酒が飲めねいのかい
寂しいことは無いぞ
酒を飲む時はこの気分が必要
肩を落として後姿は風情があるだろう
一人ぼっちの詩を作っていればいい
俯瞰で人生を渡っているのだ

 
 
 詩人は、過度の飲酒から、精神を病み、入退院を繰り返した末に脳溢血で孤独氏したという。それを知って「姿勢」の一篇を読むと、ひとごとではない。この野放図なまでの宣言を聞いて思う。これは寂しいとだけでは名づけられない人生だ。

 晴天

草木の側にいると離れられない
誘われそうだ
小川も唄っている
僕の体はふんわり
浮きそうだ
会話もしたくない
うんうん
とぼんやりしていたい
服装ももうない
裸だ
どんな高貴なものも
この雰囲気にはかなわない
顔も脚もない
いい気持ちだけだ
目は頭上にある
此の日画家のおお方の色彩が駆使された


 この詩集は、金沢の亀鳴屋さんから紹介頂いた。多くの詩が、人が履歴書に綴るようなことの余白で詩が生まれている印象があるので、探求は難しかったと思われるが、編者の外村彰さんは、この大部の詩篇伊藤茂次さんの丹念な足跡を、三ヶ月でまとめられたそうである。巻末近くには、小幡英典さんによる「裏辻の影‐もじさん後追い行」と題された写真集もついており、伊藤茂次さんの詩篇には、男達を駆り立てる成分が濃厚に含まれている。
 本来なら、表題の「ないしょ」を取り上げるべきだろうが、川本三郎氏が「感動的」と評し、天野忠氏が「私の好きな作品」と取りあげ、伊藤さんを詩の道に進ませた大野新氏をして「一篇の傑作」と言わしめた詩は、やはりこの詩集を手にとって出会われるのが一番良いだろう。
 そういう意図で書かれたものではないけれど、私の周りの妻達は、生活を守るべく、身をすり減らして日々を送っているからして、せめて世の亭主には、その、何でもないような日々が、実はどんなに得がたいものかをこの詩集で味わってみてほしい。これを世に広めてもらうために朗読を頼むのなら・・ショーケンアントニオ猪木だろうか・・村上信夫アナウンサーとか(ああ蛇足)
 詩篇の紹介を了承頂きまして、亀鳴屋さん、ありがとうございました。

  お問い合わせは亀鳴屋さん 金沢市大和町3-39 ホームページあり