詩集『風来坊』を読む 2

岡崎武志さんの詩集『風来坊』は2003年10月1日に発行されている。発行人は山本善行さん。発行にあたっては山本さんが主導権を握られたとか。岡崎さんのあとがきに「林さんに新たに組み直した本文ゲラを送ってもらい」との字が見えるので、端正なページづくりと印象深い装幀は林哲夫さんがされたのだろう。


(4)

やむにやまれぬ
なんてことはなかった
これまで 一度も


支線にのりかえて
山奥深く入りこんでいく
列車は二両連結です
木曽路でなくとも山の中は山の中)


抽象名詞の駅名の
小駅を通過し
動物の名のつく
駅をいますぎた


かくれ里という
美しい名前を教わった
あの村この村での
さまざまな感情をふり落としながら二両連結は勾配をのぼりつづける


老人だって
それなりの生き方で
足の衰えをかくしているのだ


若者だって!


(紅葉の盛りにゃ
この古ぼけた
ディーゼルの車体が
焼けたように染まる)


信玄袋をぶらさげた
老婆の
誇らしげな表情に免じて
おれは許してもらえるだろうか


遠い地の
あの人この人よ


やむにやまれぬものがなかったにせよ
捨ててきてしまった
あの地を背にして


おれは
いま ひたすら
山の中です



「やむにやまれぬ/なんてことはなかった/これまで 一度も」の情熱的な切りだしに身構えると、意表をつかれる。その後に続く車窓を眺めての描写は平穏な語り口だからだ。
昔、一人旅などしていると必ず『寂しくないですか?』と聞かれたものだ。拘泥や鬱屈が顔を隈どっていたからだろうか。今は旅にでると「家族はだいじょうぶですか」と十中八九聞かれるようになってしまったが。(いないというとまた高確率で気の毒がられておもしろい)普段の生活において、寂しいなんてのはNGワードの最たるものだから、何とか言わないで我慢した挙げ句、人は旅に出ることで寂しさを解放してやるのだろうか。「老人だって/それなりの生き方で/足の衰えをかくしているのだ/若者だって!」の連や信玄袋の老婆が出てくるくだりを読むと南木佳士さんが書かれている最近のエッセイを思い出す。老人の諧謔や知恵ある言葉が聞きたくて、信州で生きているという部分を。

「やむにやまれぬものが/なかったにせよ/捨ててきてしまった/あの地を背にして」
ふるさとを後にしてきた者は、必ずみぞおちあたりにこんな気持ちを持っている。失礼を重ねて言うと、私の「二月十四日」にある「本」という詩はこの作品に流れる気分が共通している。あとがきのエッセイを読んで知ったが、岡崎さんも講師をされながら教職浪人をされたとある。私も特別支援学校で働きながら、今数えたら教職浪人を八年もやっていた。共通する体験が、故郷を同じ色で描かせたのだろうか。私はといえば、あまりに岐阜が受からないので、京都、静岡、北海道など日程がずれているところまで受けに行ったけれど、全部だめだった。11年も前のことだ。何だか忘れていたことがいろいろ蘇ってきてしかたがない作品の(4)。気になるのは詩に出てきた路線だが、どこだろう。いろいろヒントが出ているみたいだけれど。
(7に続く)