詩集『風来坊』を読む

岡崎武志さんより 、 詩集『風来坊』(岡崎武志スムース文庫)をいただきました。掲載の許可をいただいたので、印象に残った詩篇をここに写させていただきます。
(3)
いつからか
遠い人のことを
おもうようになった


近い人は
遠い人よりも
なお 遠い


どうせ届かぬなら
たとえ手をのばしても
どうせ腕が短いのなら
はじめっから
何もなかったことにしたい


美しい風景があって
ただそれだけで
涙ぐむような日があって


おれはだめです



それでも
生きるぐらいしか脳のないおれだから
日ざかりの道は
てくてく歩きます


塗りのはげた
観音立像を
ある村の
すたれた寺でみた時は
本当に息ができなくなった


生きてることが
その時だけ
いやでなくなった


合掌!


叙情的な始まりながら、 三連で「たとえ手をのばしても/どうせ腕が短いなら」と現実的な言葉の小石が噛ませてあるのが新鮮。 これがないと、調べが美しくなりすぎて、本当に言いたいことが薄れてしまうに違いない。
六連、「はい、はい、これ私!」と手をあげたくなってしまう。
「それでも/いきるぐらいしか脳のない/おれだから/日ざかりの道は/てくてく歩きます」
未だ私も歩いています。人生街道。できることなら私も「おれは だめです」と裏で誰かに叫んで歩き出したかったが、聞くひとぞなし。
観音立像のくだりは何かの面影をそこに見たととりましたがどうだろうか。二十代後半に決定的な失恋していた私は、その後に出かけた福岡の博物館で髭のガンダーラ仏に息をのんだことがある。遡れば恋人の寝いりばなに、「涅槃仏みたいだ 」とうっとり話しかけて失笑されたこともあり、アホや・・思い出すとこっちが瀕死になる。おっと、なんで自分の若気の至りをここで!こんなふうに、なんの功徳もない恋を思い出させる成分が、この詩には含まれているのかもしれない。
「生きてることが/その時だけ/ いやでなくなった」
これは書けない。恋への畏れと希望をこの直球に収斂させるために、前段をずいぶん工夫されたことと思う。

(4)に続く