市振の海は
つぶての鳴る音がした

浜に鰯の子は呼ばれ
潮だまりに残されて跳ねる
きりもなく舞い降りる

きつね石ばかり拾っていたら
土地の人から
小礫を手渡された
これを探しているのだろうと
それは確かに
角ばって重い

浜を離れて駅へ
つぶての音はかすかになった


探していたものを
見つけられたのだが
なぜか
これではないような
気がしてならない


もらったものを握りしめて
間遠な列車を待っている

温故知新をいただきます

きょうの料理ビギナーズ」のテキストを初めて手にした時、その余白の多いつくりに驚いたものだが、小さなコラムで紹介されていた「温故知新で食べてみた」というブログが、とりわけ印象に残った。昔の料理書や主婦雑誌の料理記事の紹介だけでも興味のツボを刺激されたが、「で、食べてみた」と実際に作って食べるまで載せたところが、頗る面白く、ここ数年、楽しみに読ませてもらっていた。
 いつか書籍化しないのか…というのが、このブログのファンの共通する思いだったが、この11月、願い叶って、先頃、主婦の友社から『温故知新で食べてみた』はめでたく刊行された。
 主婦の友社の料理編集部が寄せた序に、筆者の山本直味さんのブログ執筆の動機が次のように書かれている。「昭和初期の和洋折衷料理をできるだけ忠実に再現したい。というポリシーから材料を遠方へ探し訪ねることもあれば、ほぼ1日がかりの時間を費やし調理することもあるらしい。たとえば後々、これらレシピをアレンジして料理研究家を目指したい、なんてことは微塵も思わず、口に合うかどうかもわからない未知の料理に、時間とお金と手間をかける。本書と同タイトルのブログを立ち上げ、7年間。一人でも多くの人に、この理屈を超えたエネルギッシュな昭和初期前後の料理を知ってほしい、興味を持ってほしい、と200点近くを作ってきた。」
 例えば「胡瓜のコロッケ」は「監修:童話家 天野雉彦氏夫人 天野てるの 主婦の友 昭和六年八月號「新鮮な夏の野菜料理の作り方」」と出典が示され、「で、食べてみた。食べた瞬間は衣のサクッとした歯触り。その次に胡瓜のシャキッとした歯触り、(略)香ばしいのに水っぽい料理なんて初めて。かなり面白い味です。」と評価をつけ、「胡瓜の茹で加減がコロッケの出来を左右しそうですね。」と作成して得たコツや「これは無理では…」という感想が添えられている。ちなみにこの料理は深夜のバラエティで取り上げられ、出演者の評価は低かったそうだ。しかし、山本さんは星を三つつけているので、本当はおいしいらしい。昔の料理を興味本位で取り上げて、「まずい」と笑ってみたりするのは簡単ではあるけれど、山本さんが目指しているのは、このバラエティとは異なる領域のようである。
 このコロッケを作った天野てるのは、
他にも「玉子カレー煮マッシュポテト」などが紹介されていて、「料理研究家列伝」として経歴も記されている。「夫に美味しい料理を食べさせたい、病弱な子供の体を丈夫にしたいという思いから栄養料理などを学び、ついには料理塾を開くまでになった。」
この料理家列伝は、小さな囲み記事ではあるけれど大変興味深い。
秋穗敬子(東京割烹女學校長)、ハリス夫人(ハリス・ヨシノ 陸軍大學教官ハリス氏夫人)、大下あや子(父は同志社大学元総長の海老名弾正氏)など、この本で紹介されなければ、きっと、主婦の友社の書庫で埋もれていた人々が、改めて名前を記されているのは感慨深い。何せ歴史とは連続しているものだから、私たちが適当に作るハンバーグや酢豚なども、昔の人の試行錯誤あっての完成形なのだということがよく分かる。
 2006年のブログを始めるにあたって、山本さんは一文を載せている。仕事の参考資料で手にした昔の婦人誌の付録のレシピ集を見ていたら「その内容の面白さにだんだんと目が釘付け」という目覚めがあり、明治中期以降、料理研究家達が「一般家庭でも洋食に親しんでもらえるかと思案した」結果生み出された「和洋折衷」料理のチャレンジャーぶりに「これってどんな味」という興味を掻き立てられ、ブログを始めるに至ったとあり、7年後の今になって見ると、新しい扉の前に立つ武者震いのような思いが綴られているように感じられる。
 自分は、昭和三十年代~五十年代の料理書を読むのが好きなのだが、『温故知新で食べてみた』を読んで、きっと明治から脈々と続く、料理研究家の情熱のレセプターが自分にも埋め込まれているのだろう、と自覚できた。こういう未来に現れる読者のために、どんな小さいレシピにも料理家の名前を記すことを編集する人には、唐突ではあるが、お願いしたいものだ。 
 新刊を読んだ感想をツイートしたことから、「レシピがある料理などは、ぜひお時間のあるときに作って食べてみてください」と著者の山本さんから言葉をいただいた。「本当に美味しいんですよ、コレ。」とあった「胡瓜の炒め煮」(横山せき子)をまずは作って食べてみようと思う。
2017.11.24

注意して服用下さい

ケストナーの『人生処方詩集』を探したが見つからない。たぶん何度も買っているのに、一冊の痕跡すら見つからない。本屋にもない。仕方なくワンルームをひっくり返していると、『ケストナー短編 小さな男の子の旅』(小峰書店)が押入れから発掘された。
「小さな男の子」のフリッツは、入院している母に会うために、父が必死で用立てた母の手術代金を持って、(父には内緒で)パーゼヴァルカー病院に出かける。
母のお見舞いに花を買い、「おかあさん、しゅようができてね、ぼくはおみまいに花たばを持っていこうと思うんだ。あっ、りんどうだ。ぼくたちが庭のある家にいたとき、植えてあったよ。これをちっちゃな花たばにしてほしいな」
というように、ませた、というのでもなく、ひとなつこくよく話すフリッツは乗った電車の中でも大人をなごませる。そして、病院に無事について、衰弱した母に面会するのだった。「小さな男の子はねむっている顔に力なくほほえみかけると、かけぶとんの上にそっとりんどうをおいて、なでるように手を空中で動かしました」そしてフリッツを気遣う看護婦に「なおるまで、そばにいられたらな。ぼくがいること、ないしょにしておいて、ねむっているあいだだけ、ぼくが部屋をのぞくことにしたら…それはできないよね。ぼく、わかってるよ」と気丈に言いながらも待合室で「とても小さな、たよりなげな声で」ずっと泣き続け、「どうしたものかと立ちつくす看護婦さんの目にも涙が浮かびました」
ひっくり返した部屋の中で読む気にもならず、喫茶店で読み出したが、まずい、この本当に短いお話に、看護婦さんじゃないけど涙が出てきてしまう。
二つめは、亡くした母に心を寄せるあまり、「シュンタファーさんが今はニーリッツ夫人になって、だからあたしたちのおかあさんなんだって。そんなの思いつきじゃない?あたしがメルクさんのとこ行って、こんにちは、あたしきょうからここんちの子どもでマレーネ・メルクになることにします、っていうようなものだわ。わかる?」と墓地で人形に語りかける女の子の話である。
新しい母のリスベートは、婚礼の席を飾ったカーネーションを束にして、墓地にマレーネを迎えに行き、自分も母親のない子どもで、ずっとさびしく生きてきたことを話す。「そうやってどんどん年をとっていったから、おとうさんにあなたたちのおかあさんになってくれないかときかれてここへ来たの。あなたたちのおかあさんが死んじゃって、代わりの人が要るからじゃなくて、あたしが子どもをかわいがりたいから…あなたは自分がひとりぼっちだと思うでしょう、マレーネ。あたしはあなたよりもずっとひとりぼっちなの…」
リスベートの語りはもう少し長く、いわゆる、マターナルデプリペーション、母の愛を受けずに育ったために、友達にも恵まれず、周りになじめなかったという重い話である。子どもに対する告白としてはプレッシャーをかけすぎか?と今の感覚では思ってしまうが、母となる人の率直さに、マレーネカーネーションを亡した母の墓に供えることで応えている。リスベートとマレーネの二人の場面に、また涙を拭いた。
 しかし、この本を1996年の1月にこの本を読んでいる自分というものがいた筈なのに、実は何も覚えていない。子どもの頃は「ふたりのロッテ」などを楽しんで読んでいたが、二十代から三十代にかけては、ケストナーは、縁遠い作家になっていた。
 訳者あとがきによると、この作品が書かれたのは『エーミールと探偵たち』などを書きはじめた頃、新聞に掲載されたという。
 「ひとりっ子だったケストナーは母親の愛情を一身に受けますが、甘やかされた子どもではなく、貧しい家計をやりくりする母を助け、期待に応えようと努力する親思いの少年でした」と訳者の榊直子の紹介があるが、『エーミールと探偵たち』(岩波書店)には、訳者の高橋健二が、ケストナーの少年小説に対する姿勢として「彼はおかあさんの愛情と苦労、おかあさんにたいする自分の気もちを何よりも書きたかったのでしょう。そして、何よりも書きたいことを書いたのです」と書いている。
 

 『世界一あたたかい人生相談』(ビッグイシュー販売者・枝元なほみ 講談社文庫)は、販売員が路上生活者で、雑誌の売り上げが収入になるという自立支援を目指した雑誌ビッグイシューの連載が本になったものだ。販売員が「部屋をかたづけられません」、「実家の母に、もうウンザリ」などと寄せられた質問に販売員の人が答えて、料理家の枝元なほみも言葉とレシピを寄せている。
 (20代/女性/事務職)の「仕事がつまらなくて、すべてがむなしいです-販売者さんは、続けておくべきだったと思われることや仕事がありますか」という言葉に、「本当は相談に答えるような立場じゃないんです。僕の人生は、全部挫折してきて大阪・西成にたどり着いたわけですから。その時に人を愛することをやめたんです。友達も作らず十何年間生きてきた。愛することがないから愛されることもなかった」と五十を過ぎた販売員のAさんが回答を寄せている。「若い頃、西成に来て、一人でいると楽だったけど、でも、どこかでむなしさも感じてました。今は、自分のためにではなく、人のために何かできないかと思っているんです。今も、決して幸せな生活ではないし、大変ですけど。」
 誰にも愛情を持たないというのは、普通の生活者では、不可能に感じることだろうけれど、生活が荒れ、誰にも今の自分を深く知らせたくないという負のスパイラルに陥った時、人は誰しもそうやって自分を護るのだろう。
 「偉そうに人に言えるような人間じゃないないんですけれど、あなたも何かを愛することができれば、きっとやりたいことも見つかるし、すべてが変わってくるんじゃないでしょうか」
この生きてきた厚みを感じる回答に、添えられた枝元なほみのレシピは玉ねぎサラダ。「「むなしい」って、気持ちの不完全燃焼なのかもしれないなぁって思ったんです。(中略)続けなくちゃいけないことを大事にしているうちに、なんかふっきれるといいんですけど」
玉ねぎを刻んで泣いてみては?と冗談めかして書いてあった。
 病の床のお母さんの姿に泣いた小さな男の子フリッツのように、何かのために泣くことも、時には人生の薬になるんだろう。今回読んだ本は、期せずして、泣かない人生の処方箋になる二冊となった。
2013.12.4

焼き菓子の魔力

実家に帰ると、大抵明け方頃、台所のほうからモーター音がしてくる。母がフルーツケーキの生地をミキサーで攪拌しているのだ。
昭和五十年代、台所にガスオーブンが普及するに伴って、日本の家庭に、おはぎやまんじゅう以外の、手作りお菓子ブームが起きた。城戸崎愛、今田美奈子、森山サチ子らによる初心者向けの本は、今でもチェーンの古本屋でよく見かけるが、そのどれもが夢のある内容ながら、プロセスカットが懇切丁寧なのが特徴的だ。
昭和四十四年生まれの自分が、小学二年生の時、両親が四苦八苦してバターロールを作ったことがあった。今思えばガスオーブンが家に来たからだったのだろうか、風呂場を行ったりきたりして、てんやわんやの大騒ぎは覚えているが、肝心のパンの味はどうだったのだろう。顛末を作文に書いたところ「バターロールは家でも作れるのですね」と先生がコメントをしてくれた。パンといえば食パンか袋パンをイメージする時代に、手作りに挑戦してみるとは、若かった両親のハリキリぶりが微笑ましく感じられる。
そして時は流れ、家庭の状況が手作りのお菓子どころではなくなり、熱中したら命がけになる母は、パートタイマーだというのに、家に職場の機器を持ち込んで、朝から晩まで螺子を切り出したり、検査をしている時代があった。そして仕事の合間に大病を二度ほどして、祖母の長い介護時代に突入。そしてこの時期から、小さなオーブントースターで、やたらフルーツケーキを焼くようになった。
昔から、作りはしないが本だけは欲しがる自分が、小学四年生の時に買ったまま台所に放置した本のレシピが、今の母のケーキの基本だそうだ。昭和50年頃の主婦の友生活シリーズの本で焼いていた時は、イギリス式なのか、ブランデーに漬けたオレンジの皮を刻んだものや干し葡萄でずいぶん重たい、羊羮のような味わいのものだったと記憶しているが、今はパウンドケーキのような感じである。
 これを焼くために母は柑橘の皮を年中探し回り、ないとなると、業務用食材店のオレンジの皮の蜜漬けを買い占め、「売り物でもないのに金をかけて…」とケーキの匂いだけかがされるだけで、なかなか口には入らない父を嘆かせている。
 いつだったか、料理家の栗原はるみがタルト・タタンを料理記事に載せるため、短期間に百を越える回数を焼いて試行錯誤している様子をテレビ番組でやっていたが、焼き菓子には、何か人をつかまえてしまう魔力があるのだろうか。
 つい最近、そのタルト・タタンを30年以上焼き続けて、フランスの協会から表彰も受けた松永ユリさんを紹介した番組を見た。何と松永さんは亡くなったということだ。ラ・ヴァルチュールのタルト・タタンは評判が高かったので、いつも春、京都の古書まつりに行くたび「近くだからいつか行ってみよう」と思っていたのだけれど。タルト・タタンはお孫さんに引き継がれ、りんごを干し柿のような食感に煮あげ、深い飴色に輝くお菓子はこれからも味わえるようだ。
 母は早朝に焼き菓子を焼くことで、長い介護の続く中、ささくれていく心をなだめてきたのかもしれない。ボールにぶつかるビーターの音を聞きながらそんなことを思った。
2014.8.23

食べることも愛することも耕すことから始まる

雑誌を見ていたら、以前よく出かけた雑貨屋の店主の消息が載っていた。意志的なまなざしが印象に残る女主人は、数年前、料理上手なパートナーと共に山間部に移住したという。記事は、結婚の良さを伝える趣旨のもので、前のめりな相思相愛が強調されていたが、移住当初、貯金がなくなって泣きだした彼女に、これからうまくいくよと夫はどこまでも楽天的だったというエピソードが、妙に印象に残った。
クリスティン・キンボール『食べることも 愛することも 耕すことから始まる』(河出書房新社)は、ハーバード卒のライターであったクリスティンが、農夫のマークと出会い、一年をかけてCSA形式(日本で生まれた地域支援型農業)の農場を開くまでをつづったドキュメンタリーのようなラブストーリーである。 
原題は『Dirty Life』。ここには、家畜を手に入れ、畑の整備を始めたころのクリスティンの感慨が反映されている。「仕事は汚れることばかりで、汚いという言葉を定義し直す必要があるくらい汚く、清潔を保つためには膨大なエネルギーが必要だった。汚い泥だけではなく、血、肥やし、乳、膿、自分の汗、家畜の汗、それに機械油、生き物の脂、内臓やありとあらゆる腐蝕物にまみれて日々過ごさねばならない。」
マークとクリスティンが始めた会員を募っての農産物の生産販売は「人間が生きていく上で必要な食料全般の生産」「エネルギーの完全自給」という高い理想をかかげており、そのために彼らの恋愛と結婚の日々は、馬を使って命がけの耕作に挑み、乳搾りに腕を腫らし、雑草との戦いにくたくたになるなど、蜜月には程遠い。読者のこちらまでがぐったりしてくるほどの重労働の連続だ。
働きに働いても、経費の清算をすれば資金は減るばかり。クリスティンも先に書いた雑貨屋の店主同様、お金の不安から涙を流す。「別に金持ちになれる保証を、といってるんじゃない。ただ生活できないのは困る。その心配は無用、と請け合ってほしいのだ」どうやらパートナーの無謀に対しては、国は違っても思うことは一緒のようである。マークがどう宥めたかは、ここには記さないが、自分の信念を通して周囲を嵐に巻き込む人物は、やはりどこでも、悲観論者は少ないとみえる。
つい、重労働の場面ばかり紹介してしまったが、この物語にもロマンスはあり、それは食の場面に現れる。開拓時代の物語などを読むと、男をつかまえるなら胃をつかめと年頃の娘が周囲に言われる場面がよく出てくるが、この物語では、マークが鹿のレバーソテーでクリスティンの胃をつかむ。他にも、旬のバターを使ったイラクサのスープ、鳩のローストなど興味深い料理を、マークは求愛の言葉の代わりにクリスティンに捧げている。
 ネットでクリスティンを観たところ、ジュリア・ロバーツ似だが,中村メイコのように淀みなく喋っていて驚いた。女傑である。現在、経営する農場は会員数222名、太陽電池パネルも導入し、事業は順調に伸びているようだ。
クリスティンは、農場育ちの人と知り合うと、どんなふうに育てられたか聞かずにはいられないという。「答えは二手に分かれ、輝くばかりの理想的な子ども時代だったか、とにかくたいへんでつまらなかったかのどちらかで、あいだがない」ということだが、自分のことでいえば、家が兼業農家で、休日は田畑での仕事が果てしなく続き、怒られてばかりだったので、あまり農作業に良い印象はない。「お金がなくても精神的に豊かでいられる」農場の生活をクリスティンは娘のジェーンが気に入ってくれるように望んでいるが、親の意見を振り切って生きてきた彼女がそんなふうに思うようになるとは面白い。娘さんが大人になるのはまだ少し先のこと。その未来へと、マークとクリスティンの心血を注いだ農場がどうなっていくのか、続編もぜひ読みたいところだ。
2012.11.4

太鼓腹の謀主と呼ばれた人

 梅雨にさしかかるこれからの季節は、気候のせいで身体がだるくなりがちだ。こんな時期は、ビタミンの補給に豚肉を食べるといいと聞いたことがある。しかし、今年はエルニーニョの影響で、冷夏という噂はどこへいったのやら、6月に入ってもう30度を越えている。もうこうなると、夕餉には素麺とか冷奴にありつきたいばかりで、肉を食べたいという気持ちは、ある程度元気がないと湧いてこないものである。
 『ゴンチャローフ日本渡航記』(講談社学術文庫)は、1853年に日本に通商を求めて来航したプチャーチンに秘書官として随行した作家、イワン・アレクサンドロヴィチ・ゴンチャローフの旅行記である。
 ゴンチャローフは、通商についての交渉に参謀のような立場で関わっていたようだが、この「日本渡航記」は、交渉事の詳細よりも、諷刺に満ちた人物観察が際立っている。
 ニコライ一世の国書に対して、分かりきったことを質問攻めにしたり、とかく作法やしきたりに時間をとられるスタイルの江戸の外交に辟易しながら、返事待ちの無為な日々にも、船の人乗組員や、ひっきりなしに訪れる通詞(通訳)達の行動をつぶさに書き留め、退屈の中からも様々なことを見いだして、作品にしている。
   「そら、あそこではチフメニョーフが猛烈な溜息をついている。彼は私たちをどう賄えばいいのか、日本人は食料を提供してくれるだろうか、きれいな水を運んでくれるだろうか、もしそうしてくれるとしたら、値段はいくらなのか等々がわからないのである。船の缶詰類には大抵の者が「そっぽを向く」と彼はいうのだ。」
   この後、イギリスで仕入れた缶詰について嘆きがある。「海上に出ると、やがて牛肉の味が仔牛肉の味に似てきて、仔牛肉は魚肉に、魚肉は兎肉に、こうしていっさいの味が似ても似つかぬふうに変わってしまう。」
 その一ヶ月後、食料不足が深刻になり、長崎奉行と交渉して生鮮食料品はオランダ人から買えることにはなったが、結局運送船を大陸に出すことになる。
  「日本人は牛を有益な使役畜として殺すことを禁じていて、常に食べるのは魚と鳥で、肉食はしないので、私たちが日本で食肉を入手することはできなかったからである」
 この時代の通詞達の奮闘を小説にした吉村昭の『海の祭礼』(文春文庫)にも、漂着した捕鯨船ラゴダ号の乗組員が、肉を食べたがって荒れたという記述が度々出てきたが、普段食べているものが食べられなくなるということについて、当時の世界中の人々は、パニックになりやすかったようだ。うーん、今でも似たようなものかもしれないが。
 ゴンチャローフは、この日本への紀行を含む『フリゲード艦パラーダ号』を出した翌年に、代表作『オブローモフ』(岩波新書)を著している。 
 解説によるとゴンチャローフは、美食家で彼に会った日本人は「大腹夷」という印象を持ったらしい。
 沼の恭子『ロシア文学の食卓』によれば『オブローモフは主人公が寝転んで過ごすことの他は食べることしか興味がないという性格づけのため、食事場面のかなり多い小説で、料理の描写も絶品だとのことだ。
 ゴンチャローフは、高齢になるまで官吏と作家の二足の草鞋を履いており、大抵の年譜に「一生独身を貫いた」となっているが、そんな格好いいものでもなかったとか。
 なぜか『日本渡航記』はどこにでもあったが、『オブローモフはどこの本屋にも置いていなかった。このゴンチャローフ熱が消えないうちに、早く手にいれて読みたいものである。

                                                            2014.6.1

 
 
 
 
 

BENTOにかぶりつけ!

大抵の人が、学校時代の話が出ると、「牛乳のテトラパックを飲み終わると、男子が踏んづけて破裂させてたねー」だの「カレーライスがまた食べたい」など、郷愁と共に給食のことを語ったりする。
 そんな時、「興醒めではなかろうか」と危惧しながらも、実は仕事に就いて二十余年、未だにずっと給食生活なんだ、と言ってみると、どんな話でも「食」の話は盛り上がるものだ。今時の給食事情について「回鍋肉や八宝菜がヘビーローテーションなんだよ」などと語っていると、そのうち、弁当づくりの苦労話や、弁当や社食もないという人の昼食サバイバル術も聞くことになり、「毎日考えるのは大変だよねー」と相槌を打ちながら、自分が久しく弁当を作ってない、ということに気づかされた。
 毎日弁当を持っていったというと、高校時代の三年間だが、醤油のおかずの汁漏れに辟易したことや、冷凍食品のナゲットや卵焼きがおかずだったことをうっすら覚えているだけだ。
 それから四半世紀は経っているだろうが、今や、ヨーロッパでは日本の弁当箱が話題になって、大ヒット商品になり、「Bento」は世界に通じる名詞になったというが、こっちは弁当箱も所持していないときた。和食の国の人なのに。
 最近、小さい頃に家にあった主婦と生活社の『カラークッキング9 おべんとう』をまた手にすることができた。食べ物の本なのに黒を基調とした表紙で、ホイルに包まれたおにぎりと梅干しの写真がどーんと表紙に載っている斬新なデザインの本である。このシリーズは、辻静雄、志ノ島忠など、書き手としても力のある料理家の随筆がふんだんに収録されている。どれも再読したいものばかりだが、古書の人気が高く、全10巻を再び手にするのは、難しそうだ。
 この『おべんとう』では、写真家の田中光常の「氷のドームの中で」という、気温マイナス20度Cのノテト岬で、持っていった缶詰も凍るような気候の中で、チカという魚の干物をかじりながら、オジロワシの撮影に成功した話が記憶に鮮明だった。
 そして、坂本喜恵氏の「ドドと曲げわっぱ」という、随筆を見つけ、再読の喜びを味わった。
「おべんとうといえばまず頭に浮かぶのは、幼い日に見たふるさとの山の人たちのおべんとうです。それは秋田杉で作った曲げワッパと呼ばれる子供の頭ほどもある容器にはいったものです。」そう始まる文章には、かんじきを穿き、大きな荷を背負って雪深い場所に立つ炭焼きの人の写真が添えてある。
 坂本氏の実家は造り酒屋で、冬になると、山あいで炭焼きをする家の主、ドド達が炭と酒を交換するために訪れ、酒を貰うと、店の隅で弁当を広げた。
 「ごはん粒がつぶれるほど詰めこんだ曲げワッパは、ずっしりと重そうでした。塩ざけに丸のままの茄子漬、塩たらこに大きく切ったたくあん、はたはたの糠漬けに梅干しのでっかいの、体菜と呼ばれる青い菜の漬けもの、みがきにしんの味噌煮に菊の花のはいったしそ漬。ときにはみそ漬のみじん切りやごま、きなこのようなものがふりかけてあり、なんとも楽しそうでした」おいしそうだ。彩りといい、量の豊かさといい、なんと食欲が呼び起こされる弁当!
「わたしはドドたちが大きな口をあけて、茄子の頭をガブリとかじる瞬間が大好きでした。みんな手作りの素朴なおかずでしたが、なんとおいしそうに見えたことでしょう。」
 坂本氏は、少女の日に見たことをこのようにいきいきと描写し、その思い出が、小学生だった自分にも、生命力に溢れた人が、おいしく食べているのを眺める快さというものを教えてくれた。
 ただ、不惑を越えたというのに、はたから見れば、自分は大食いの部類らしい。最近も回転寿司に行って、瞬く間に結構な皿を積み上げ、人に驚かれたくらいである。人の食べるのを眺めて「食欲が湧くねぇ」と喜ぶには、あと三十年はかかりそうだ、と「いい話にしおって!嘘つき!」と身内に言われないように、ここに告白しておく。
2014.2.24