食べさせるよろこびをつづる

ホテルのビュッフェ式の朝食には、目の前でオムレツを焼いてくれるコーナーが設けられていることがある。自分では、オムレツもどきしかできないけれど、プロが焼いているのを見ると、その手際の良さに目が離せなくなる。
といた玉子をレードルで掬い、油がよくしみこんた小さなフライパンで、形よく焼き上られていくオムレツには、実際の味以上の魅力がある。
石井好子が、第六高女の先輩の大橋鎭子に「料理の随筆を書いてごらんなさい」と勧められ『暮しの手帖』で連載を始めた。それが『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』(暮しの手帖社河出文庫)として世に出ると、大変なベストセラーになり、石井好子はある時期、本業のシャンソン歌手として、より料理研究家としての仕事が多い時もあったという。
 最近、文庫化されたこの本の解説(堀江敏幸)には、「オムレツの作り方なんて、いまでは誰でも知っている。氾濫する写真を覗けば、ここでこうなるのかとすぐに確認もできる。たたし、自分でつくって自分では食べて自分の言葉にした人でなければ、「やわらかい卵のヒダ」なんて表現は生まれないだろう」と賛辞を述べているが、パリの下宿のマダムが焼いたオムレツ・ド・ナチュール(プレーンオムレツ)は「そとがわは、こげ目のつかない程度に焼けていて、中はやわらかくまだ湯気のたっているオムレツ。「おいしいな」、私はしみじみとオムレツが好きだとおもい、オムレツって何ておいしいものだろうとおもった。」というオムレツ。これが石井好子の料理の原点となった。
『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる』が出版されて四十年ほどたった二〇〇六年、扶桑社から『巴里の空の下オムレツのにおいは流れる レシピ版』が刊行されている。
小西佐知子さんという編集者が『巴里の空の下~』のレシピを現代に甦らせたいと奔走し、石井好子にアドバイスを受けながら制作を始めたところ、試作をして撮影が始まるという段階で「料理の盛り付け方、素材の切り方はこうではないわよ」と石井に指摘された。チームは「本のイメージと違ったものを作ってしまっていけない」という危機感から、石井のもとに集まり、1からレクチャーしてもらったという。パリ祭の頃というから石井は多忙だったと思われるが、自分の本に熱い気持ちで向かう編集者にほだされたのだろう。撮影用の食器を惜しみ無く貸し与え、「あとがき」も編集者達の奮闘に対し、丁寧に謝辞が述べてある。
読者には分からない出版の経緯をあえて明かしてあるのを以前は不思議に感じていたが、今、読み返すと、その部分が石井好子の一作品として相応しいのではないかと面白く思う。
一九九〇年の、『暮しの手帖別冊 ご馳走の手帖』には「母を想うこのごろ」として、「一月末に母を亡くしてから、私は料理をするのがいやになった。」という書き出しの後から、「いまもまだ料理はあまりしたくないし、食べもののこともあまり考えたくない。おいしいものを食べれば、母に食べさせたかったという思いが、つい先立ってしまうから。」という末尾の前まで、母が好物を食べる姿をずっと書き出してある。
「朝食はお手伝いまかせが多かったが、たまに出すと「オムレツ焼いて」といわれた。プレーンか玉ねぎ入りを玉子一コで作った」
『東京の空の下オムレツのにおいは流れる』(暮しの手帖社)には、夫を亡くした石井が、やはり、食に熱意がなくなり、ある日、夫の生前は、嫌いだからと言われて出していなかった鶏料理を食べてみてお手伝いさんにおいしいと言われ、食べることの工夫をまた始めた。という章があったと想う。
暮しの手帖』の連載が始まると同時に、パリのコルドンブルーに入校もした石井だが、生涯の料理のスタンスは「食べてくれる人においしいと思ってもらえるような料理」を作ることを最上としていたようだ。
石井好子が遺したどの著作にも、人に食べさせる喜びが溢れている。そして愛した人を次々に失い、時には食べることに意欲を無くしても、また時がめぐると共に、亡き人を思いながら食べることがグリーフワークとなっていたのではないだろうか。
2014.2.18