コルドンブルーに何がある

テレビ番組「フレンチ・シェフ」で、フランス料理を60年代のアメリカの家庭に広めたジュリア・チャイルド。今年は生誕100年にあたり、この一料理研究家の誕生を祝う記念行事が、この夏、全米各地で盛大に行われた。アメリカ以外での知名度が、どれほどかは分からないが、昨年末には、ジュリー・パウエル(ジュリアのレシピ524を365日で作るというブログで注目されたライター)とジュリア・チャイルドの2つの自伝を原作とした映画「ジュリー&ジュリア」が日本でも公開されていた。ジュリアが夫の赴任地のパリで、食を究めることを思いたち、コルドン・ブルーに入学、意地悪な学長や横柄な生徒、手におえない食材相手に奮闘する場面がエネルギッシュに描かれていたが、ひとつ意外に思ったのは、劇中のジュリアが「料理を教えるのにディプロマなんか要らないわよ」と何度か友達に言われながら、それでもコルドン・ブルーの修了証を貰うことにこだわっていたところだ。
 本間千枝子アメリカの食卓』(文春文庫)によると、本間氏は「フレンチ・シェフ」の放映当時、アメリカ在住だった。ジュリアの料理は、一見「料理上手なおばさんの料理」でしろうと芸に見え、手際も良いとはいえなかったという。(しかし、ジュリアの大らかな人柄を知るにつれ、番組のファンになったとか)
 実際の画像を見ても、いろいろこぼしてもこまごまと布巾で拭いたりはしないし、盛りつけもできあがりそのまま。適当である。とても、シェフのたまごを相手に競いあい、火花を散らした過去があるとは思えない。
 自由な語りと、不器用すぎるくらいの、キッチンでの振る舞いは、フランス料理に対するしゃちほこばった気持ちを「アイスブレイク」するための演技だったのか、どうなのか。ともあれ、いつまでもコルドン・ブルーを掲げている人だったら、ジュリアはここまで慕われなかったに違いない。
ライターのキャスリーン・フリンは、『36歳、名門料理学校に飛び込む!』(柏書房)の中で、「シャンパンとともに、スフレやフォアグラといった華麗な料理の世界に迎え入れられ、モーリス・シュバリエみたいなフランス語なまりの英語を話すハンサムなシェフの指導を受ける」というイメージを抱いてル・コルドン・ブルーに入学したものの、「規則とユニフォームの世界」であり、「軍事教練なみの正確さで野菜を切れるよう、いつも同じ味が出せるよう、繰り返し練習させられる」という現実に驚いている。彼女は、リストラをきっかけにして、「ライターとしてのステップアップのために学びたい」という五百字エッセイを書き、ネットから入学申し込みをした。自分の経歴に「ル・コルドン・ブルーに在籍した」という一行を加えるために。

また、石井好子の『パリの下オムレツのにおいは流れる』の中に出てくるル・コルドン・ブルーもシェフは辛辣である。昔から高い学費で、生徒泣かせのカリキュラム。それは変わらない流儀らしい。
 憧れや夢だけで足を踏み入れると、投資が大きいだけに、挫折した時はかなりツラいことになりそうである。

キャスリーン・フリンの本によるとル・コルドン・ブルーには日本人グループに専属通訳がつくほど生徒が多いようだ。今、そこまで日本でフレンチが流行っている印象はないし、アメリカ人のように、ジュリア・チャイルドがおふくろの味でもないのに、不思議なことである。しかし、需要の多さは、日本各地にル・コルドン・ブルーができたことでも分かる。
 今年、人の先行きや命には無頓着に、貰いとった金銭でコルドン・ブルーに通おうとしていた女性の公判が話題になった。ル・コルドン・ブルー卒の一行が、何故そんなに必要だったのだろうか。
オードリー・ヘップバーンの「麗しのサブリナ」には、「世界一の料理学校」としてル・コルドン・ブルーが出てくる。料理の場面はモーレツ!!しごき教室のようなので、いくら日本人がヘップバーン好きといっても、それとル・コルドン・ブルーに行きたいのは別なんだろうかと見ていたら、バラ色の人生が流れる夜更け、サブリナが父親に手紙を書く場面が出てきた。
これを見て、「人生最良の二年間」を探そうと思った人もいただろう。たとえスフレが膨らまなくても。オードリーに影響を受けた世代の憧れが、ル・コルドン・ブルーに、職業訓練校としての有り様だけではなく、別の意味を付け加え、憧憬が継承され続けているのだろうか。
ジュリアのレシピを作り続けたジュリー・パウエルも、キャスリーン・フリンもジュリア・チャイルドのレシピ『ブフ・ブルギニヨン』に小さい頃の幸せな思い出を重ねている。ジュリアは最初の料理本は何度も試作を重ね、8年の歳月をかけたという。その労作が世に出てベストセラーになり、欧米の家庭の味を創る役目を果たしたのだった。
2012.11.14