これはまたなんといふ味

 手元にある昭和40年代~50年代の家庭料理の本に、筒井載子の「料理」は数多く登場している。しかし「料理家」としての、筒井載子の人となりを意識したのは、『テレビ料理人列伝』(河村明子著・NHK生活人創書 電子版あり)を読んでからだった。
 戦争未亡人の筒井は、「きょうの料理」が生放送の時代、正月が近づくと家から出にくくなる他の講師達に代わって、おせちやもてなし料理などの年末年始の回を毎年担当していたという。今のように正月でも働いている人が沢山いる時代ではない頃である。
もしかしたら、自分からやりたかった仕事なのかもしれないが、筒井には娘もいたというから、一家団欒の時期に、親をテレビに取られた子がいたと思うと、気の毒な気もする。

 『テレビ料理人列伝』には、筒井の夫の手紙が『きけわだつみのこえ』にあることも記してあり、妻を気遣う数行が紹介されていた。今回、改めて『きけわだつみのこえ』(岩波文庫)を読んでみると、夫、筒井厚の手紙は二通あった。河村氏の本で紹介されていたのは、戦地に赴く前、真冬の広島の宿でで書かれたものだった。

 「ここはまだ寒い、殊にこの煎餅ぶとんは寒い。贅沢なようだが温かいふとんはいいなあと思う。」とは、寝床で妻子を思って筆を執ったのだろうか。娘の写真を見て、「早く大きくなってくれと思う。風邪をひかさぬようにやってくれ。お前もくどい
ようだが案外風邪をひきやすいようだから、充分注意して。」と背中に当て布をするといいなどと細々書いている。
 また、厚は本好きでもあったようで、横光利一の『旅愁』を手に入れて旅に携えていくことも記し、「これからまた何か小説でもよみながら睡りにつこうというわけだそれではおやすみ。」と結びにも書いている。
 もう一通の手紙は、ラバウルからニューギニアに向かう途上に書かれている。
 「我々は近いうちに発つ。最早や生命は無きものと覚悟した。お前もその積りで、取り乱さざるよう万が一の心構えをしておくよう。」緊張感に満ちた悲壮な言葉が連ねられている。厚はこの遺書を書きながらも家族のことを思い、目に浮かぶ娘にさよ
ならだと告げ「喜びもはた悲しみも何かせん この一瞬を幸とこそ知れ さらば」と歌を詠んだ。
 筒井厚は1941年12月、東京帝大法学部を卒業後すぐに陸軍経理学校に入り、1943年に東部ニューギニアで行方不明。25歳だった。載子と暮らせたのは一体どれくらいだったのだろう。
 手紙を読むと、微笑ましくもあたたかな思いやりに満ちた新家庭が浮かんでくる。本好きでユーモラスな、お父さんだったのだろうに。
「今にして思えばもっと為しておくべき事があったような気がする。これが不完全なる人間の最後のたわごとに過ぎない」
死を前にして、もっと言いたいこともあったろうに。遠い国に苦労してたどり着いたのは、死ぬためだったとは!
 顔の見えない誰かが下した愚かな決断を引き受け、どれだけの人の生活がないがしろにされたことだろう。それを思うと「戦争を知らない子どもたち」世代の私たちには、まだまだ知るべきことがたくさんあるようだ。今回は、一人の料理家の人生を追うことから、思いもしない展開になった 2012.11.25