おじいちゃんの「洋食や」

たいめい軒主人だった茂出木心護の著書『洋食や』(中公文庫 電子版あり)の解説は、詩人の高田敏子が書いている。
 「茂出木さんは昭和六年中央区新川に「泰明軒」を開店されて、戦後の二十三年、日本橋に移り「たいめいけん」となった。そのお話をうかがって、私は「泰明」時代の洋食をいただいていたことがわかった。私の生まれは新川と川一つ距てた小網町、母が新川に隠居所のような住いをもっていたときがあって、「泰明軒」の出前をとってもらうのが何よりのご馳走だった。
   深川八幡も永代橋も、私にはなつかしく、茂出木さんとは幼友達のような思いになる。」
   茂出木心護と高田敏子は、それぞれが講演の講師として招かれた先で出会った。高田が朗読した嫁ぐ娘に寄せた詩に、娘を持つ茂出木が感銘を受け、どちらも育った土地が近いことから、親交が始まった。
 『洋食や たいめいけん よもやま噺』(茂出木心護 角川ソフィア文庫)には、「昔の新川は酒問屋の街で情緒のあるいいとこでした」と、開店した頃の新川の様子が描かれている。
 「昭和の六年ごろ、あたしが店を出していた中央区の新川ってとこは酒問屋の街でして東京中に出荷されたお酒は全部といっていいくらい新川からでたもんでした。雪の降った朝には、お店の前はきれいに雪かきが終わって雪だるまができたり、ふだんでも朝早くに掃除が行き届いて、竹ぼうきの目の立ったさまが、今でも鮮やかに思い出されます」
 明治生まれの茂出木が、「六人でいっぱいの店」を母と二人で大車輪で切り回していたこの時、高田と同じ頃に生まれた池波正太郎は、まだ少年ではありながら、母親を助けるために、株式の仲買店に入って働き始めていた。
 池波正太郎の『日曜日の万年筆』(新潮文庫)には、「むかし、私が株式仲買店の小僧だったころ、先輩に連れられて、一度だけ、日本橋・新川にあった[たいめいけん]へ行ったことがある。[おやじ]は細面の美男子で、神経がピリピリしている感じだったし、おかみさんは眼のぱっちりとした可愛らしい人だったという印象が、いまも残っている。」という思い出話と共に、作家の武田麟太郎たいめいけんを贔屓にしていた話を紹介している。
 中公文庫の『洋食や』にも書かれているが、茅場町に住んでいた頃の武田麟太郎が、当時のたいめいけんにとっては、破格な数の出前を頼んだものの、勘定をためてしまい、「銀座八丁」の原稿料が出てやっと支払ったというエピソードである。
 武田の書いた「市井時」や、「朝の草」などを読むと、社会からは外れ者になっている男や肉親のために、身も心も尽くすヒロインが描かれている。その理屈も打算もない世界に棲む女性達の人生に浸った後で、たいめいけんの思い出話を読むと「武田さんのところの人たちは、とてもよい人たちよ。いまは、お金がないらしいけど、入ればきっと払ってくださる方だから待っていればよい。私が受け合う」と、勘定を取りにいった茂出木心護の母親の言葉が妙に響いてくる。懸命に生きている者同士の「情」が通じ合う時代だったことが、その言葉からよく分かる。 
 「ほらこの手首、痩せちまって、ちょうどマッチ箱の幅ですよ」と、自分の手首とマッチ箱をぴったり合わせてみせて、見舞いに来た高田敏子を笑わせようとした[おやじさん]。解説の文によると、臨終の一週間前だったという。もうすぐ「たいめいけんが節目を迎えようとしていた昭和五十三年六月一日に亡くなった。病の篤い人の見舞いには行かないことにしている池波正太郎は、『日曜日の万年筆』に、追悼の意を込めたのだろうか。孫の茂出木稀代子の作文を載せた。
 「おじいちゃんの顔、今でもはっきり覚えている。おじいちゃんの死顔はおだやかで「おじいちゃん!!」と呼べば起きてくれるようだ。おじいちゃんは最後まで、お店に行きたいと言っていた。おじいちゃんが造った[たいめいけん]は、もうすぐ五十周年。それまで生きてたかったと思う。かわってあげたいと思う。みんなを悲しませたおじいちゃん。おじいちゃん、今空のどのあたり。今頃、原稿を書いているのかな?凧を上げているのかな?お料理を作っているのかな?おじいちゃん」
   軽妙洒脱な人柄が表に立っていたが、孫にこんなに慕われるということは、家族に対しての愛情のかけ方が人一倍深い人だったと思われる。また、たいめいけんの客をも家族のように大事にしていたから、今でも、その死を惜しむ文章をあちこちで見かけるのだろう。

                                                          2014.7.24