愛される時は思うより短い

クロワッサンで朝食を」は、イルマル・ラーグ監督の母の実際の体験が織り込まれているという。そのせいだろうか、雪深い町で、飲んだくれの元夫に手を焼きながら、寝たきりの母の介護をしているこのエストニア人のアンヌを、なぜかよく知っている気がするのだ。
 二年看ていたという母が眠るように逝き、茫然とするアンヌのもとへ、パリ在住でエストニア出身の高齢女性を介護してほしいという依頼が来る。老人ホームに勤めていた経験とフランス語ができることが、求人が来た理由だった。アンヌの地道な日々の積み重ねが、はからずも、閉塞した場所から脱出するためのパスポートになった。
 紫のブルゾンに白いニット帽でパリの町を歩くアンヌ。輪郭の整った顔が、最初、綺麗な人として見えないのは、野暮ったい格好に加えて、あまりに深い諦念を、表情に滲ませているからだろう。この、アンヌのどこか投げやりな挙措を、ジャンヌ・モロー演じる気難しい元歌姫、フリーダは見逃さない。
 好みも聞かずに出された朝食には、徹頭徹尾手をつけず、スーパーで買ったクロワッサンを「プラスチックを食べろというの」と突き返し、への字口でわざと紅茶をこぼして、足元にアンヌを這いつくばらせる。ジャンヌ・モローの悪女ぶりが、また別の形で輝いている。
 ソルボンヌ大学に学び、フランスにも住んだノンフィクション作家角田房子の『味に想う』(中公文庫)の最初の章は「クロワッサン」である。「翌朝、先輩が来てくれてホテルの小さなカフェへ行った。そこのカウンターに立って、大きなカップのカフェ・オ・レェ」に三日月型のパンをひたして食べるのが、パリの朝食だと教わった。クロワッサンとの初対面だった。とてもおいしいと思った。ふっくらバターを含んで香ばしいクロワッサン…」
フリーダは、私に必要なのは、焼きたてのクロワッサンとおいしい紅茶だとアンヌに主張していたが、角田房子も焼き立てのクロワッサンにカフェオレにひたして食べるという習慣をパリで覚えたという。
「だがパリに戻れば、私は焼きたてのクロワッサンの誘惑に勝てない。毎朝家政婦が出来たてを買って出勤してくるが、朝寝坊の私は彼女に起こされるのがうるさかった。それでカフェへ朝食に通うという、家庭の主婦にあるまじき悪習になじんだ。」
 ホームヘルプに、朝そんなサービスを標準装備しなくてはならないとは、というより、主人の安眠より焼き立てを食べてもらわねば!という家政婦の気迫が勝つとは、さすが美食の国である。
アンヌは、フリーダのように、好きな男を求めて生きてきたというような、カラフルな人生とは無縁な人物である。それがためにフリーダが細心の注意を払って築き上げた孤独に対して、過去の事実を知らぬまま、善意の押しつけをしてフリーダを怒らせ、自身もひどく傷つく。
アンヌにフリーダの世話を頼んだことで、二人を結びつける役割を持って出てくるのが、かつてフリーダの恋人だったステファンだが、カフェを持たせてもらった恩もあるフリーダに、「僕の時間はあなたのためにあるわけではない」などと、むきつけに言うのが、フランスのお話らしからぬところだった。
 年上の女が、自分の衰えを感じた時、若い恋人から敢然と去っていくという話は、『味に想う』でもアルフォンス・ドーデの『サフォー』が紹介されている。(なかにし礼が『哀愁のパリ』として訳した文庫があるそうだ。)近年映画化されたコレットの『シェリ』も年上の女が恋を終わらせると決断する話だったように記憶している。85歳の冷めやらぬ恋心に周囲が手を焼く話というのは、長寿時代を迎えたアムールの国の諷刺か何かになっているのか、フリーダのルーツがパリではない前提になっているからかは分からないが、年の離れた恋人がいる人が見ると、フリーダとステファンのやり取りに、寂寞の思いに駆られること必須である。人生は長い。愛される時は、自らが想像するよりずっと短いものなのだ。
映画の最後に出てくるアンヌは、すっかり美人になっている。これは、監督の母がパリから帰ってきた時に、垢抜けて全く別人になっていたという思い出が反映されているらしい。この、演技者の技量がかなり試される筋運びに、ずっとリアリティある演技で応え続けたエストニアの女優ライネ・マギ。この作品で「彼女はまさに発見です。すばらしい女優!」とジャンヌ・モローに言わしめている。
 普段は皮がパラパラ散るのが煩わしくて、クロワッサンを食べることもないが、「そんなことを言ってると人生の香気も失せるわよ」とフリーダに言われそうである。久々に郊外のパン屋さんに車を走らせるとしよう。
2013.10.15