背中の記憶

『背中の記憶』(長島有里枝 講談社)読了。長島さんの名前は、女性誌によく登場される人気写真家だと認識していたから、この回想集に一枚も写真がないことが意外だった。プロフィールにも、作者による文章による作品集は、この本が初めてと紹介してあり、数多の読者の疑問を想定して書かれているのであろう。
表題作の『背中の記憶』は恵比寿の古書店(リムアート)を訪ね歩くところから始まっている。私のような、その場所が未踏の読者は、正確な地図を知らず、「餌を探す蟻のよう」に歩き回る著者の後を追うような気持ちで、作品世界に引き込まれていく。古書店ワイエスの展覧会カタログを手にした作者は、思い出のあるヘルガのシリーズを探すが見当たらず、代わりに一枚の絵を見つける。 その後ろ姿の人物像が、祖母への記憶の呼び水となって、家族のポートレイトが、語られていく。
どんな作家の作品でも、子ども時代をテーマにしたものは、曖昧な記憶を土台にしているからか、主観や情緒過多が重すぎ、手をだしかねることが多い。しかし、この作者の筆は「上鷺宮」「清瀬の公団」で紡いだ自分の生活と上州から出た一本気なお嬢さんであった祖母の生活史を濃密に描いて、なおかつ程良い距離感がある。印象深いのは、祖母が死の床にある時、作者が訪ねて行ってトイレで慟哭する場面だ。すべてを余さず書いてあるのにも関わらず、読者は非常灯の下で筆者の後ろ姿を眺めているような気持ちにさせられる。共感して悲しくなるというよりは、一枚の絵を見ているような印象を受けるのだ。ここは写真家である長島さんしか書くことができない、真骨頂というものなのだろう。葬式で泣かなかった一番可愛がられた孫娘の胸の内、先に延ばされたという悲しみは、年月を経て祖母の背中を語るという、際だった輝きを放つ文章としてここに昇華した。
この章は一年をかけて書かれ、『群像』の連載がこの本になるまで四年の月日がかかっているという。

変わり者という叔父「マーニー」を書いたもの、子ども時代の記憶「ホリデイin高崎」など、家族と付き合いの薄い私には読み込みにくい章もあったが、母の妊娠線について触れてある「やさしい傷跡」作品の随所に出てくる弟との記憶はまるで自分のことのように思われる。

なぜ写真家の文章に写真をつけなかったかは、「背中の記憶」の秀逸に、屋上屋根を架さないための配慮だろうと思われる。
近所の本屋は二冊きりになってたが、これは、出会えてよかった一冊だ。