伝説の人

中山千夏の新刊『蝶々にエノケン 私が会った巨星たち』(講談社)を読んでみると、様々な名前が詳細な記憶と共に綴られているのに驚いたが、佇まいが似ているとも言われ、そばで影響も受け、後には菊田一夫の引き立てを巡ってライバル的な関係になりかかった宮城まり子についての記述が、そこだけ歯切れ悪くもやもやした書きぶりなのが気にかかった。宮城まり子は、今は病床にあるとはいえ、存命の人である。数年前に観たドキュメンタリーの中では、ねむの木学園の経営にかかる莫大な経費を稼がねばと、歩行も大変そうな身体ながら、インタビューでは「私がやらねば誰もいない」と気丈に答えていた。そのことを思うと、中山千夏宮城まり子の間には、かつての誤解を解すような機会は訪れなかったのだろうかと不思議に思う。 森村桂の『私の逢った神さまたち』を中学生時代に読み、印象に残っているのが、宮城まり子の書いた解説への違和感だった。
森村桂は、作家豊田三郎の娘で、売れない作家の父にお金のことは頼めないからと、機転をきかせてオーブンをその製造会社に頼んで月賦にしてみたり、アパートの設計図を自分で引いて、父の知り合いに建ててもらって生計が立つようにしたという。また『天国にいちばん近い島』の旅行も様々な人の力を借りて実現したので、様々な人への感謝をこの本で「神様」と表現している。この、ユーモアまじりの体当たり自伝に対して、愛情を込めながらも、人を頼りにする生き方への批判が混じっているのが、まり子流なのだろうか…「私ね、あなたが、いつもふりふりのレースのついたワンピースを着てる感じ、大好きなんだけど、或る日、すかっとしたシックなコートも着てほしいの。そう、これ仕事のこと。桂ちゃん、この本の中でも、あなたったらいっぱいあなたの神さまをみつけちゃってるけど、人の中にある神さまの世界を、さがし出して、そこで生きようとしてるけど、神さまって、みつけるとつらいよね。そして、人の中の神様を、みつけて生きてゆこうとすること、悲しいことだよね。だって、みつけなけりゃならないものね。神さまがいれば、そうでないものの方が世の中に多いのだもの。それでも、あなたも、私も、神さまをさがして、みつけて、それをたよりにして生きているみたい。あなたも、あんまりからだ丈夫じゃない。私もあんまり、からだ丈夫じゃない。あなたと私、どこかとてもにてるって思っちゃった私だから、あなたに書いてることは、私にかえってくることになるわね。だから、なんか書くのおっかないわ。(後略)」
著名人の社会活動が望まれた時代だったこともあるだろうし、やはり宮城まり子の影響も大きく、森村桂は「もうひとつの学校」というフリースクールの走りのような活動を私財を投じて始める。恩師の大野晋に授業を頼みこんだはいいが、カルチャースクールのような内容を宮城に「ね、考えてよ、桂ちゃん。勉強のことを教える学校なら、あなたが作らなくたっていいのよ。あなたが、作ろうとしてたのは、どっこも教えてくれない、小さな小さな大切なことを教える学校じゃないの。」と批判され、「もう終わった」と暗い気持ちになったことが、著書『もうひとつの学校』に記してある。この学校にまつわるゴタゴタは森村桂が離婚する原因になったことから、再婚したところでこの活動からは距離を置いたことが『もうひとつの学校』のあとがきにある。
先の批判の場面では、ねむの木学園の生徒の絵を宮城が森村に見せて、教えるとのではなく人の持っている力を引き出すという理念を語るところがあるが、きっと「自分には無理だ」と森村桂はここで感じたように思う。80年代だったら、大野晋を迎えて源氏を読むのはそれはそれで価値のあることとされたろうが、70年半ばでは、周囲からは、小金持ちの遊びとして受け止められたのかもしれない。今だったらそれも社会貢献と認められたろうけれど。
最初に書いたテレビのドキュメンタリーは、藤森照信の手になるねむの木の美術館とその建設が主題だった。莫大なお金がかかり、「まり子さんも大変だ」と学園の人もせめてもとペンキ塗りをしたりするのだが、もうおじさんになったTさんが、相変わらずマッシュルームカットで星の王子様みたいな格好をさせられていることは、既に福祉業界に入職していた私の目には奇異に映った。また、ナレーションで何遍も語られていた宮城まり子がいなくなったら、借財が大きく、皆が困るだろうというシステムも素人でもどうかと思われた。 しかし、『続・ねむの木の子どもたち』を読んだところでは、就学猶予などといって障がい者の人権を剥奪しているのに、その意識も何もない時代に、きちんとした福祉観を持って活動を続け、映画も作って世界に広め、谷内六郎を招いて療育活動をしたことは、誰も成し得ない素晴らしいことであり、異質な部分は全く感じられない。 ところが最近の様子を見ると、楽園は作っても、それが続かなければ、園の人が老いを得てから外の世界に放り出されるのはあまりにも過酷なことだと懸念される運営に思われた。法外な横領などもあったが、個人で始めたことだからとはいえ、赤字経営なら、どこかでチェックできなかったのだろうかと思う。今は支える手立てができただろうか。 ちなみに生年をウィキペディアで見ると、宮城まり子は1927年生まれ、森村桂は1940年生まれ、中山千夏は1948年生まれだった。森村桂も随分年が離れていたのだ。そして、生きていたら71歳。宮城まり子より先に伝説の人になってしまったが。