Bildungsroman

ビルドゥングスロマン、という言葉を知ったのは、曽野綾子の『太郎物語』を読んだ時だった。しかし、太郎物語の太郎自体は1980年代の中学生から見ると、高校篇でもずいぶん老成しているように感じたから、成長物語とは感じなかったけれど。下村湖人次郎物語なども読んではいたが、病床の母に少ない小遣いで肉を買ってあげる場面くらいしか覚えていない。幾つもの扉を開けて、育っていく様子に醍醐味を味わうという経験では、望月峯太郎の漫画『バタ足金魚』の印象が鮮やかだ。ソノコに認めて欲しいという動機から水泳を始め、ストーカー呼ばわりされながらも、バカバカしいほどの、真剣さで泳ぎまくるカオル。社会人になってから読んだ続編の『お茶の間』には、さほど惹かれなかったのだが、あれは、ぬるい沼に浸かって、何にもなれないような気持ちでいた大学生時代だったから、あんなに熱中したのだろうか。

最近、人のリクエストを聞いてDVDを探すことがあり、「ハイジ」と「おしん」(アニメ版)をたて続けに見た。どちらも日本で愛されてんできたお話であるが、放映中はちゃんと見ていなかった。大人になって観ると、ハイジは人の世話を焼きすぎだし、おしんは本人の成長より、親身になってくれる人が悲惨な死を迎えるのが気になった。ただ、この「おしん」のアニメ版は還暦あたりの女性には大変な人気で、続きがあったら探して欲しいと懇願される始末。韓国や中国の偉人ドラマが流行る理由がなんとなく分かる。若かろうと、老いていようと、人は、人の成長を見て、胸を躍らせたい欲があるものらしい。
などと考えていて、雨に降られた一日、こんな作文が目についた。

人の一生 二部四年
山本夏彦
おいおい泣いているうちに三つの坂を越す。生意気なことを言っているうちに少年時代はすぎてしまう。その頃になってあわてだすのが人間の常である。あわててはたらいている者を笑う者も、自分たちがした事はとうに忘れている。(中略)こうして三十を過ぎ四十五十も過ぎてしまう。又、その子供が同じ事をする。こうして人の一生は終わってしまうのである。
山本夏彦『無想庵物語』文春文庫
山本夏彦、十歳の作だと作中に書いてあった。生涯、この考えは変わらなかったと言っている。「所詮、この世はダメとムダ」というやつである。しかし、読者としては、自殺未遂を繰り返し、父の友人に附いてフランスに行き、なんとか生き延びて後にこの大巻を著した少年の一生を思うとこれは、ロマンのある自伝のように読める。
この本は、平成2年に発表されたようだが、辻まことと結婚したイヴォンヌを振り返って「こうしてまこととイヴォンヌは結婚するのである。私はやきもちをやかないのである。いいあんばいだとも思わないのである。依然として私はイヴォンヌが好きなのである」と、老いた筆者の書きぶりには、かつての自分の恋心に光を見ている様子がある。
ビルドゥングスロマン。それは、海のものとも山のものとも正体は分からないが、人が、ただ無我夢中に前しか見ていない時期に宿る情熱の集積を、先を行く者が郷愁をこめて、そう名づけたものなのだろう。