菜園


 野菜苗が店頭に出るのを気にしていた年月があった。山の上の学校に勤めていた時には授業の一環に畑作があり、初夏になると、さつま芋の苗を多治見の街の苗屋にまで買いに出掛けていた。藁で縛っただけの苗の束は、ほどいて植え付けたすぐは、くったりして一見大丈夫かと思うのだが、植えてから、梅雨の雨をくぐると、畑は一面ハート形の葉っぱで埋め尽くされるのだった。

 数年後に入職した小さな福祉作業所には、小さな菜園があった。作業場を貸してくれていた大家さんが、通ってくる人のために、自分の畑の一部を提供してくれたのだ。 当初は、芋類を植えつけて、利用している人に配るという感じだったが、ある時から、8人ほどいたメンバーひとりひとりのリクエストを聞き、作りたいものを植えつけるようにした。田圃のそばの水捌けのよくない畑で、皆が植えたがるトマトが、花が落ちたり、実が割れたり、なかなかうまくいかなかったことを覚えている。
苗というものは、ホームセンターにある時期までは種類豊かにあるのだが、ある年、忙しくて六月に苗を買いに行ったら花苗しかなくて、仕方なく、種を買って撒いたら、やはりトマトは立ち枯れてしまい、実家から苗をもらってきたこともあった。
一方、その時つくったキュウリ「四葉」は、同じく種から育てて、こちらは、あっという間に成長し、毎日毎日実をつけるようになった。あまりに何本も採れて、誰も持ち帰らなくなったので、ある時、キュウリ尽くしの調理実習をしたら、その後半日は、二つしかないトイレが絶え間なく塞がってしまい、キュウリの恐るべき利尿作用を知ったものだった。


 茄子も、土地にあっていたのか、よくできた。長茄子やら加茂茄子など、いろいろな種類を試したが、一度切り詰めても、いつも最後はたくましい木のようになり、晩秋は抜くのに大わらわだった。
栗かぼちゃやアールスメロンは、葉をいっぱいに繁らせ、見事な実が一、二個なってからジ・エンドになるということもあった。
サニーレタス、ゴーヤ、コールラビ、スティックブロッコリー、人参、オレンジカリフラワー、イタリアンパセリ、時なし大根など、小さな菜園でも7年のうちには様々な野菜の成長を見ることができた。



兼業農家に生まれ、土日しかないため、親のマイルール農法が飲み込めず、なんだかんだとヒステリックに叱られるなか、農作業をしたので、20代は全く栽培などに興味はなかったが、都会で育った上司や同僚に「自分は鍬が使えないから、畑ができるんだったらやってみてください」と言われて、しぶしぶ始め、趣味程度なら、畑も楽しみになるということを知った。また、この国では、土を耕したことのない人がざらにいるということも併せて気づいた。
今は畑とはまた無縁の生活になってしまったが、「現代農業」や「やさいの時間」を愛読しては、ホームセンターで種を見るのはやめられない。去年は「ラー油をつくるから」と父に変わった形状の唐辛子を作らせ、シシトウと間違えて食べた母に、二人して怒られたりした。
今年は農協職員の弟が、世界一辛いとかいう品種の唐辛子を今、岐阜ではやってる大きい直売所に出荷したいと言い出して、発芽したのしないのと、しばらくはどんな電話をかけてもそればかり。とんだ唐辛子旋風だ。



 今年は、震災と放射能の影響で、農地を手放し、離職を余儀なくされる方が居る一方で、生き方を見直した上で、営農を始めると宣言する人も出てきている。
幼い頃のことを思うと、親達は土地のやり方の洗礼を受けてもルールの縛りが分からない上、農作業もうまく廻らず、そのストレスを親は、悪気はなくとも家の内にぶつけていた気がする。

 移住、新規就農を阻む土地のルールはどこにもあり、うまく根を下ろして定住するのは容易ではない。植物のように合わないからと枯れてしまうわけにもいかないのだ。被災した方へ、様々な自治体が受け入れについて、物資が揃っていることや、家賃猶予についてのPRは毎日聞こえてくる。具体的な生活支援は無論大事だが、それと同時に、土地の精神的な受容力や、居場所としてどうかという表現しにくい部分がたぶん移住の決め手なのだろう。などと、身から出た錆の根無し草もぼそぼそと思う。