新年度

4年程担当した仕事場を離れる―といっても別に仕事の内容は同じで、階下に移るという具合―にあたって昨日は引き継ぎをした。引き継ぐ方が、超ベテランなので特に心配もなく、こっちも古巣に戻るという立場なので、あまり不安もなく春を迎えることができた。 こんな年は、珍しい。 過去を振り返ると、学校を出た平成4年は、就職口がとにかく無い年で、3月ぎりぎりに土岐市の学校に勤務が決まって、引っ越し。免許を取って間もない友人がトラックを出してくれて、なんとか勤務に間に合った。
最近での印象に残る春は、4年前。7年間担当した小規模作業所を、法制度の煽りをくらって閉める形になった時、もう一人の職員と必死になって古いミシンやら、タイヤやら、あらゆる歴代の不要物を捨てるべく手配し、荷造りをし、利用者さんの手を借りて3日かけて移転を済ませた。  重曹で磨いて白くなり、ガランとした部屋で、作業所を借りていた大家さんが、最後に手作り餃子で労ってくれたことが忘れられない。
あの時のパワーがあれば自分の引っ越しなぞ軽々できそうだが、仕事と私事はもう全く別で、狭い狭いと思いながら、岐阜に戻って13年目も同じ場所に棲み暮らしている。
同じ場所で同じ仕事を続けていることにたいして感想はなかったが、今年ばかりは、災害により、その日常が、たまたまに過ぎないのだということを皮を引き剥がされるように思い知った。
東海、東南海地震が起こる、起こると生まれてからずっと聞かされ、意識して生きてきて、阪神大震災でも様々見聞したはずなのに、いや、全然分かっていなかったと改めて思う。
「被災」には具体的な救援が肝心なのに、お金は集まっても、必要な物がすぐ届かない。一ヶ月近く経っても食料は不足し、燃料がなく移動もできない。被災人口に避難所が追いつかない。仮設住宅も僅か…言ってもせんないことながら、報道で知ることは「どうして」ということばかりだ。 そして、今の状況下で、情緒過多な歌や言葉だけが先んじて届けられても、当惑以外のなにものでもないだろう…と感じる。そして毎日、報道を見ていて、現地から発信される言葉に、こちらが励まされることが多いことに気づく。和合亮一さんの詩についても思ったのだが、何かの教えやどこからか引用の詩句より、当事者の体験から発せられた言葉の交換が、今は人を励ますのだ。自分ができることは、そこを長いスパンで見守り、伝える機会をつくっていくことなのだろう。そして、形ある応援も何かしらこれからも続けて行かなくては、と思う。悲しいくらいお金はないし、稼いでいくのもままならないけど、納税も復興支援と考え、今年も働いていこう。