春だけど

 23歳で当時でいう養護学校(今は特別支援学校)の講師に就職して以来、11年前に転職して以降も、年度末というのは、いつも心休まらない。特に東濃で長らく講師を続けた最後の年、単年度契約とはいえ、3月15日になってから「高校の統廃合があって国語の教員が流れてくるから辞めてくれ」と言われた時のことを思うと今でも胸が痛くなる。その年は副担ながら、担任が学校の裏山でMTBで転倒し、頬を骨折して長期で休んだため、現場はずっと自分が見ていたのに…という大変な年でもあったからだ。
 他に思いつくあてもなく翌日、関市にある教育事務所に登録に行くと、その時の教育事務所の所長は、偶然ちょうど大学4年の春に、就職を斡旋してくださった方がまた就任されていて「そんなこと、いくら一年契約でも法律違反だ」と勤務校に抗議の電話をかけられた。そのためか、「病欠の人が出たから…」と急に留まる道が示唆されたが、人を馬鹿にした話だと思い、盲学校の空きが出たので、6年間の東濃生活を引き払ったのだった。この時のショックは大きく、盲学校は3年契約だったが、一年勤務した後に今の障がい者支援の職についた。

 今の仕事は単年契約制ではないが、やはり年度になると事業に合わせていろいろ変わる。勤めて2年ほど経って親施設から小規模に移り、やっと慣れたら法律のせいで、5年前そこを閉じることになった。親施設に戻れば、いなかった間の実績など誰も知らない。地域の受け皿として、施設を利用する方は目一杯だが、法律のせいで人員は昔より割けない。そんな中で身体を壊しかけ、休みが続けば、「続けられるんだろうね」くらいのことは心配はされる。器と頭がなければ、肉体労働を若者と変わらずやるしかない。福祉の世界もそういう仕組みだ。

 そして、41歳の春、やっと3月を迎えたかという気持ちでいる。
こんな苦悩は、古代の時間感覚で発想された宗教や思想、ましてや他人の体験や発想をうまく用いて載せただけの自己啓発法ではなかなか乗り越えられるものではない。悩めるものならどこまで悩めるか…90までいくのかもしれない、小さな喜びを給水しながら、そういうマラソンのような受容でいくしかないのではないだろうか。

28歳の春、その年は母の乳癌の手術に付き添い、親にはとても転職が告げられなかった。郷里から戻って月末の3日のうちに引っ越しするため、家の近所の便利屋に何もかも引き渡した。着たきりの黄土色のコートで吹きっさらしの風の中、ただ馬鹿に明るかった空の下でほっとしたことを覚えている。

あんなことがもう二度と起こりませんように。誰の身の上にも。