石垣りんさんの「ふるさと」をたずねて


南伊豆図書館で見せていただいた録画番組の中で、石垣りんさんは、澄んだ声で朗読をしていた。
合間のインタビューでアナウンサーが「なぜ、今若い人からも支持を受けているのだと思いますか」と繰り返し尋ねると「そうなんでしょうか…そうだったらほんとうに嬉しいんですが…」と小さな声で、困ったように眼差しを伏せ、きれいな口元を結ぶようにされていた。 80歳になってからの映像だと思われるが、その永遠の美少女を思わせるような佇まいには、はっとさせられた。
 いくつかの詩の印象、社会活動に参加されていたことや、諷刺のきいた文章から、「強い母親」のようなイメージを石垣さんに持つ方も多いと思うが、石垣さんは、生涯独身を通されている。ちくま文庫がいつか『ユーモアの鎖国』などのエッセイ集を出した時に、石垣さんの人となりを知ったが、石垣さんが、国民的詩人として知られるようになるまでには、長い時間がかかっている。詩を綴る少女が、かつての銀行という封建的な社会で定年まで働き、病を得た後、40代にして、詩人としてデビュー。自分の作品に対しては一字もゆるがせににできない主義でおられたと聞く。養わなければならなかった家族に対しては、読む者が辛くなるほどの詩もあるが、そのことについて石垣さんは、「ごめんなさい」という気持ちがあるのです、と痛みをこらえる表情でインタビューに答えていた。
朗読される背後には、子浦の海が映っていた。石垣さん自身はずっと赤坂、雪ヶ谷と都内に住んではおられたが、父親と生母の出身地の子浦を「ふるさと」と呼んで愛しておられたようだ。
 DVDを観ている間、いつの間にかこじんまりとした記念室には来訪者が増え、一人で、ボロ泣きしながら観ていたため、きまり悪かったが、この日は特別な日だったのだ。その時点では知らなかったのだけれど。
下田行きのバスが出る正午まで、かなり時間があると思っていたのだが、寄贈詩集を集めた石垣りん文庫を眺めていたら、司書の方と話をする時間も僅かになってしまった。石垣りん記念室は、読者、支援者の寄附1300万をもとに、この春開設されたという。この時代に、いまなおそれだけ支持されているとは、どれだけ凄いことだろうか。ファンのためにも、これはもっと知られていい事実だと心から思う。 全詩集の刊行が実現するには、読者の声が必要なのですと図書館の方がおっしゃっていたのが印象的だった。3月19日に童話屋さんと山根基世アナウンサーによる対談を含むイベントが開催されるようであったが、告知のチラシをいただくまで時間がなく、またいずれ、お話を聞かせていただきたいと、最後は走り去るようになってしまった。 (南伊豆町立図書館は正月は休館。年始は四日から。訪れた木曜日は配本整理日だったらしい。普段は8時半から5時15分まで開館。土日もやっている。)


下賀茂のバス停に急いで戻らなければ、下田に戻る正午のバスに間に合わなかったが、朝から何も口にしていないため、さすがに空腹になり、バス亭近くのお菓子屋さんに立ち寄った。飴を買い、ショーケースが昔ながらのものがそっくり残って見事だったので携帯で撮り、ストーブ前で、地元の婦人達と語らう上品な店主さんと話をしていたら、当たり前だがバスは出てしまっていた。運転手さんの用足しのための小屋のようなバス停で困っていたところ、堂ヶ島まで行っても三島に出られると教えてくれる人がいて、すぐに来た堂ヶ島行きにまた一人だけの乗客として乗り込んだのだった。
(つづく)