身体は忘れない

金曜日、健康診断に出掛けた。久しぶりに訪れたその病院は、改築して廊下に一面窓がつけられ、売店にベーカリーも併設するなど、すっかり変わってしまっていた。
 数年前の同じ季節、冬から持ち越していた腰椎ヘルニアの痛みでとうとう歩けなくなり、救急車で運ばれ、ベッドの都合がつくまでストレッチャーで寝かされていたことがある。今回、胃透視待ちのために座った放射線の廊下だけは、担ぎこまれた大雨の日と同じ暗さだった。
腰椎ヘルニアは持病だったが、起き上がれないほどになってしまうことは、それまでになく、加えて出勤の車の中から病院に直行したため、入院準備は何ひとつしていない。連絡がなんとかできたものの祖母の介護のやりくりのために親が来たのはすこし後になり、それまでは看護師に伝言しては、連絡待ちという難破船の乗組員のような心持ち。加えて、大部屋の老人達は昼に寝て、夜に活動するため、それになれるまでは睡眠不足の日々が続いた。
ヘルニアは今の医学ではある程度養生をしていれば治るとされているが、せっかちな現代人の私のこと、痛みがなかなか去らないことに焦り、身体を使う仕事柄、「失職」ということばも頭をよぎり、あれやこれやと逡巡している時、詩集『二月十四日』(龜鳴屋)にも登場する「焼き鳥 若竹」のおばさんが見舞いに来てくれたのだった。
普段、せわしない人間が丸太のように転がっているのに驚いたおばさんは、私の願いを聞いて、隣の町内の鍼医者に、私の病室に行ってくれるように頼んでくれた。いつもの先生ではなく、代診の鍼灸師が来てくださった。「マッサージ程度ならいいですが、他のことは治療方針がありますからね」と言っていた看護師に咎められることもなく、そのものしずかな人は治療を済ませ「明日には歩けますよ」と去っていった。
次の日は3回目の、神経ブロックの注射だった。それまでの2回があまりに効かず、ストレッチャーとベッドに移乗する際、左腰部に発作のような痛みが起きるので、患者も治療者も憂鬱顔で手術室に入り、治療後もたくさんの手を借りてベッドにもどった。そのすぐ後の夕食時、半身を起こしても左腰に何の衝撃もないことから、試しに足を床に下ろしたところ、すんなり立てた。そして10日ぶりに歩いてトイレに行く。主治医が見て、驚愕し「どうしたの金子さん!」と自販機のそばで叫んでいたことを思い出す。その後、みていただいた看護師と喜びを分かちあったが、注射がうまくいったのか、前日の鍼灸の力があったのか、それは今もって分からないところがある。
「焼き鳥 若竹」はなくなり、鍼医者さんは繁盛のあまり改装されたようだが最近はご無沙汰だ。腰痛はコルセットと痛み止めですぐおさまる程度だが、相変わらず季節の変わり目に顔を出す。それは、まるで何かを忘れないようにしているかのように。そういえば、あの鍼灸師さんは今はどうしておられるのだろうか。