夏葉社さんと『レンブラントの帽子』

 大学時代、ロダンのモデルになった花子の孫にあたる沢田助太郎教授に教養部で英語を習った。そこで、マラマッドについての講義もあったのだろう。読んだ記憶はそこから来ているような気がするが、かなり、おぼろげだ。
 詩人のカニエ・ナハさんが「レンブランとの帽子」が出るとツイートされていた時、その20数年前に読んだきり、マラマッドに触れてこなかったことを思い、是非読みたいものだとおりに触れ思うようになった。 今月、無事に刊行されたことを知り、早速読ませていただいた。「レンブランドの帽子」「引き出しの中の人間」「わが子に、殺される」の三篇が収められた本の装丁は、もうそれだけで読者に寄り添ってくるようなたたずまいだ。
レンブラントの帽子」は、他者のわからなさが、ずっと描写されている。ひとりよがりに陥りやすい美術史家アーキンと彼を悩ませる芸術家のルービンの不毛な細心さに、身に覚えがあるような、心震える気持ちで読み終えた。ルービンが最後まで謎をたたえているように感じるのは、何に由来するのか、自分の内面を照らし直したり、外に検索してみたり、短編ながら、考える余地がある作品だった。
次は『引き出しの中の人間』の前に、引きこもる息子を、どこまでも追う父の姿、日常を捉えながら非常に緊迫感のある一篇『わが子に、殺される』を味わう。語者がいつの間にか入れ替わる手法に引き込まれた。
 そして『引き出しの中の人間』。私は、人の構成した世界に入り込む時に、同調するまで大変苦労するタイプだが、マラマッドには不思議にそれがない。この一篇もソヴィエトで暮らすユダヤ系の詩人の話とは…という力みは不要で、詩人のレヴィタンスキーの希望と失望をこの身のことのように味わいながら、一気に読了した。レヴィタンスキーが、アメリカから来たライターの私に「『謝罪から毛皮のコートはつくれない』というんです。その考えと似ているんです。あなたからおほめをいただいて有り難いと思いますが、今は実際に援助していただきたいのです。」と激して語る場面がある。
 35年前に刊行されたものの復刊なのに、このレヴィタンスキーの言葉は全然古くない。「お前の書いたものなど、この世では無価値」だと、引き出しの中ですらなく、自分の中に穴を掘って埋めていた詩人にとっては、甚だ心を裂かれるような一冊。もっと早く出会いたかった!売れなければ、そりゃ、文学の社会も霞を食べるような真似だけではやってはいけないであろうが、読まれるべき作品は繰り返し復刊することで、文学の読者を絶やさない作用があると思うのだ。

 夏葉社さんは、こつこつと、自分がいいと思う作品のために様々な準備をされてきた。そのさなか、関西に営業にこられたのを、偶然Twitterで目にした。
 本がお好きなご様子と、古書店をしきりに探されておられるのを拝見して、銀閣寺道 善行堂さんに行くことをお勧めした。ところが、あいにくその時は定休日だった。
 暫くして、4月15日の「古本ソムリエ」の日記を読んで、驚いた。旅先で、素性のわからない、おまけに自称詩人から、自分があまり知らない場所に行けと告げられたら、普通は「また次に」とかなんとかかわすのが常套だが、「夏葉社のSさん」である島田潤一郎氏は同好の人を迷わず探しだすアンテナをお持ちらしい。この日は、今日に繋がる良い出会いになったようだ。本当にしんから本が好きな人同士は、なぜか初対面でも通じあう。私はその点、甚だ修行が足りないが…
 あなたも『レンブラントの帽子』を読んで思うところがあれば、善行堂でおもうさま語って来てください。読書の幸せを味わうことができるのではないでしょうか。