ばら

 郡上の家には、白いばらとピンク色のばらがあった。剪定もしないから、伸び放題のはずが、気候のせいか地味のせいか、どことなく縮こまった印象のばらだった。
岐阜市から郡上市に転校した小学生の頃、様々な雑誌にポプリの記事がやたらと載ったことがある。やんちゃな小学生に癒しなど要らないが、好奇心は突っ走った。庭のばらを毟って、干してみたものの、香りはとんで、茶色っぽくハートの形に縮んだものができあがった。おやつの伊予柑の皮と、人から貰ったマジョラムを混ぜて、あさくさ海苔の缶に入れていた。滑稽なことだが。
 誰かがポプリを文献としてまとめ、熊井明子さんが伝えたことで、昭和53年頃、この島国で、転校したばかりの娘は、ひとりぼっちでも寂しくなく過ごせたのだ。ばらにはいい迷惑だったろうけれど。毟った影響ばかりではないと思うが、二本のばらはもう家にはなく、躑躅ばかりが庭を占拠している。
 

 乾燥花  山口賀代子

男はドライフラワーをつくることを好んだ
花屋で好みの花を買い花瓶にいける
しばらく楽しみ 花が咲きほこる瞬間形のくずれないうちに風通しのよい軒先に吊るす


花は乾いてどれも美しかった
そのなかで一茎 褪せることなく咲いている花があるこれはドライフラワーになるまえに自ら命を断ったはなだと男は言った
この花だけはいつまでたっても枯れてはいかない
僕の記憶のなかで生きつづけているかぎりは


いつまでも褪せない花は触れるだけで
生きていた花を思いおこさせた
生きていた時代を思いおこさせた


再生しつづける記憶のなかで美しいまま滅びつづける男の花たち
その隣室で私の花々がゆっくりと褪せていく
薔薇もスターチスも細かな屑となって

『おいしい水』思潮社

 山口賀代子さんは京都の詩人。この『おいしい水』には『青い薔薇』『散歩者』『乾燥花』『庭園』のバラを比喩にした連作が入っている。創作と記憶がないまぜになって、ファンタジーの味わいながらひりひりとした読後。無くした恋が遠い昔になった大人が読むのに相応しい。読者としては役不足ながら、青いばらの写真を添えてみた。今はちょうど、ばらの季節なのだった。