本は大事と思いたい

最近はやりの、必要なものしか買わないとか借りればいいとか、無駄なものを排除する思想が困るのは、後に残る文化を考えていないところだ。
私の住む岐阜市は昨年、中心地の路面店の本屋が二軒なくなった。出身地の郡上市などは、昔ながらの本屋は品揃えが薄く、大きな本屋は撤退したので人が歩いて行けるところに満足な本屋がない。隣、関市のブックオフも今夏閉店した。

表面的には別に何の支障もないに違いないが、地元のわりあいに本を読む友人が、「ほうぼうで働いてるけどマンガすら読む人に出会わない」と嘆いているから、これは、相当本を読まない地域になってしまったに違いない。 そういう世界の話題といえば、話だけ聞くと、今昔物語と変わらないような倫理感に支配されている。分かりやすいエロとか噂話が話題の中心になりがちというような。

しかし、事態はもっと深刻かもしれない。読まないと知識は得られないから、差別も人権も分からないという人がざらになってしまい、外国人労働者がいないと職場が立ちゆかないのに、善意あるような大人が、平気で上から物を言うようなひどい発言をしてしまう。その話を聞くたびに「じゃあ、あんた達は四川の山の中で三年働いてこれるのか!」と怒りがたぎる。その他にも、考えの足らない若者が、自分こそ先がない働き方しかできないのに、敵愾心だけで年輩者を追い払ったりと年齢差別も激化している。連帯していかないと生きていけないのに。同じような話をいたるところで聞くが、生きていく上で「これでは鬼畜生と一緒だな」と早く気がつくためにも、これから社会に出る人には、読むものは読んでもらって出てきてほしい。これは自分の反省の弁でもあるけれど。

先の話を繰り返すようだが「無駄なものはおかず、子どもがいてもおしゃれに」という、世間の家庭運営感覚がどうやら文化を狭めていると肌で感じるようになった。昭和に蓄えられた文化を継承していくには、家庭にはもっと積み重ねられた歴史や無駄が要る。大抵の人の文学の出発は家庭の蔵書なんだから。子どもができたら生成りやシンプルは親の老後まで禁止としてもらいたい。凝らないのとセンスがいいのとは違うのだから。シンプルを選択肢のひとつとして示すのはいいが、何でもかんでも削ぎ落として捨てりゃいいという不心得者を量産しないでもらいたい(物理的な意味ではなく)。
このごろ本屋に行くと「散らかるから」「この間同じのを買ったから」と判で押したように、子どもを皆が叱っている。連れてきて無しなんて、刑罰みたいだし、本が欲しいなんて上等上等、今だけだっつうのにと毎度思う。(以前はまあ風物詩程度だったが、叩く親をとめて逆に怒鳴られたりと、ひどいから、なんとかなんないのか)児童施設に勤めている友人は、累計したら大量の児童書を、毎年担当する子どもに見せたり、渡し続けているが、そういう大人が身近にいるといないとじゃ、その後の人生変わってくるんだろうな。

清潔に自分の世界にこじんまりまとまってる世界は美しいけれど、そんな世界観ばかりもった人を増やして、介護や3Kを美談程度にしか取り上げないのは、それを無いことにしたいのかこの世間は?と思う。こんなことを感じるのは、私の「生活の柄」のせいかもしれないけれど。