芋の皮むき今昔

映画『武士の献立』のパンフレットには、新井素子が観賞記を寄せている。言及しているのは、夫婦のありようについてだったが、依頼した人は、新井の近年の夫婦を題材にした作品を書いたものでも読んで思いついたのだろうか。新井素子のベストセラー作品を読んで学生時代を送った者にとっては、隔世の感を感じてしまった。
映画は、加賀藩に実在した御料理人の舟木伝内の残した「料理無言抄」をベースに撮られている。『大奥の食卓』(緋宮栞 那講談社+α新書)によると、加賀藩に能や狂言、茶、そして料理の文化が発達したのは、外様の前田家が、徳川に恭順の姿勢を示すため、饗応の宴を頻繁に行ったためもあるそうだそうだが、包丁侍と言われた加賀藩の御料理人制度は、明治維新前まで続き、舟木家は一七六十六年から六代に渡って料理方を務めたという。
 映画は、二代目の伝内と子の安信の話を、八大家老と藩主の反目から起こった加賀騒動をからめて描いている。全体的に話が走りぎみだったが、盛りだくさんな内容を、とにかく分かりやすく描いている。俳優も役柄の運命が最初から予想できるほど裏切らないキャスティングだ。良くも悪くも過剰な場面はなく、これは大家族で年越しに観るにはちょうどいい映画である。
 耳につくのが、舟木安信が四つ年上の妻のはるに、ことあるごとに「古狸!」と言う台詞である。妻のはるも舅の伝内に「安信には過ぎた女房じゃ」と言われると「父上だけです。やや子も出来ぬ古狸にそう言うてくれるのは」と活用しているが、安信を演じる高良健吾上戸彩は二歳しか離れていない。夫のかつての想い人より古狸のほうが可憐というのも、話の運びと画面上の釣り合いがとれない感じである。剣の道があきらめきれず、「なんとつまらん役目だ、包丁侍とは」とぼやき、やる気のない安信に、はるが「つまらないお役目だと思っているから、つまらない料理しか作れないのではありませんか」とズバッと弱味を抉るような進言するところや、可愛い夫の命を救いたいがあまり、必死で夜明けの城下をひた走るシーンなどは、もっとどーんと母性がある人を使ったら良かったのに、というのがリアル古狸としての感想である。
 ちょうどこの映画を観た後、グループホームやケアホームで働く人向けの研修会に出た。「生活を支える仕事は、仕事内容が家事や育児と似てるから、その煩雑さに躓く人もいるんです。はまるとこれほどやりがいがあることもないんだけれど」と、大阪でいくつものホームを束ねている管理者の人が語っていた。
 福祉職だからといって、全員家事のエキスパートではない。自分にしても、人に食事を作ったり掃除、洗濯をしたりというホームヘルプの仕事を本格的に始めたのは、入職15年目の今年からである。研修でも、長年、デイサービスの日勤しかしたことがない人に、急に泊まりを頼み、あまりの浮かない顔に、理由を聞いてみると「食事がつくれないんです」との告白が返ってきて、このごろのコンビニの中食の優秀さを教え、レンジで炊けるご飯とインスタント味噌汁を渡して乗りきってもらったという話を聞いた。
 現代にも、家業を継いだものの、「所詮、料理など、女子どもの仕事。なんとつまらん役目だ、包丁侍とは」と、この映画の安信のようなことを思っている人もいるのだろうが、舟木家が何代も続いたのは、人が生きていく上で一番大事な「食」という役目を担い、先祖が情熱を込めて加賀の食をフィールドワークし、次世代に語り残したことが、大きな強みだったのではなかろうか。
 「武士の献立」には、たくさんのたすき掛けの包丁侍が、いそいそと芋を剥き、魚をさばく場面がある。この映画では、剣舞のような包丁の儀式や雉の羽盛りも出るような饗応料理場面を描く時間は意外に短く、大根をむいたり、米を研ぎ、それを炊いたり、という場面が、多めなのが面白い。きっと包丁侍達も「ことしの菜はみな高うて困る」「さりとて毎日芋では具合が悪かろう」などと会話しながら、役目に励んだことだろう。
 この映画のパンフレットは、先に紹介したように、「とても楽しい映画だった。夫婦と家族の物語だと聞いて見たんだけれど、それより前に、まずお料理物語として、すっごく素敵。」という新井素子のコラムを始め、料理がテーマの日本映画紹介やら、舟木伝内の紹介、加賀料理の話など、ちょっとした雑誌並みの内容の濃さである。映画は後から家で観る派という人もパンフレットだけでも入手しても損はないと思われる。
2013.12.15