年の瀬に小林カツ代を想う

年末は上京して神保町に行くことを楽しみにしていた頃があった。
本を買い込み、御茶ノ水駅から中央線に乗って吉祥寺に初めて行った時のこと、ちょうどお昼時で、めざしていたカレー屋が閉まっており、隣の小林カツ代のお粥のお店(今は閉店)に立ち寄った。お粥の味がどうだったのかは、もう記憶が薄れているが、年末ということで、黒豆を詰めた瓶が、店のテーブルに林立していたことを思い出す。
「これは我が家の味の黒豆ですよー」と独特の声が聞こえ、振り返ると、テレビ映りから思うと驚くほど小柄な人が立っていた。ファーつきの焦げ茶
色のコート姿だった。店内のカツ代ファンも大喜びだったが、この時はまだカメラ付きの携帯電話は普及しておらず、笑顔の店主が春風のように去っていく場面は、静かな記憶として残っている。
 「カツ代流ほのぼのおかずケンタロウ流思いっきりメシ」(講談社)には、親子で、どちらも売れっ子の料理家という二人の対談が収録されている。
 「カツ代「今何冊くらい本を出したの?」ケンタロウ「20冊くらいかな」カツ代「私は160冊。でもあの本屋での数を見ると、自信をなくすわ。もう出す必要なんてないんじゃないかと…」」これが2002年に出た本なので、現在の刊行点数はもっと多くなっているだろう。「カツ代「今後はどういう仕事がしたい?」ケンタロウ「ゆったりとした仕事(笑)。カツ代「そうね。でもかなわないわね。」(中略)カツ代「自分でちゃんと作って少人数でいいので、食べてもらえるようなお店をやりたいなと思う。」ケンタロウ「それはあるね。でも今の状態だと、客のために厨房に立つというのは無理だもんな。」カツ代「じゃあ、お互いに今後の夢は旬に添っていく。」ケンタロウ「そういうことですね。やっぱりオンタイムで一番おいしいところを食べてもらいたいね」」
ここに残された発言は、後に母はお粥の店、息子は『男子ごはん』などのテレビで、オンタイムの美味しさを提案して支持を得たことなどでそれぞれ成果を出している。驚くべき有言実行親子であるが、料理の仕事と共に阪神大震災でのボランティアや、様々な社会貢献や執筆活動の足跡を残し今はそれぞれ療養中である。
 料理の仕事は、創造した物自体が消えてしまう宿命がある。インタビューで小林カツ代自身も言及しているように、料理を紹介する媒体もすぐ消えていく。
 漫画家志望の若き日を綴った『青春どないしよう!?』(講談社)という著作もある小林カツ代は料理の仕事を従来の伝承型ではなく、育児も仕事も家事も抱えての忙しく生きたフィールドで、女性達に役に立つ情報を教え続けてきた。レシピ集は大冊はあるが、全体を俯瞰したものはないのが、残念だ。(2017年に中原一歩『小林カツ代伝』が出版された)
 2005年に小林カツ代が倒れる前年、2004年の『きょうの料理』1月号から「小林カツ代の料理にドラマあり」という連載が始まっている。大阪で育った著者が、親を追想する味から始まって、早くに結婚した友達と食べたなまり節ご飯の話など、この頁は一冊にまとまったのかどうか分からないが、毎回味わい深いエピソードが詰まっていた。(2014年に大和書房より刊行された)
2005年の4月号の「こねない手こねずし」は「以前、伊勢に代々住んでいる家族と知り合い、「ぜひ遊びに」と言われていたので、」仕事で伊勢に行った際、昼ごはんに訪ね、「かつおの手こねずし」を食べさせてもらったという顛末が書かれている。「「さあさあ、召し上がってください、せっかく来て頂きましたのに、たいしたものが出来なくて」と出されたものが、かつおの手こねずし。といっても手でこねたりせず、かつおかまぐろか分からないほどにつけた具がびっしりと酢飯の上に。」二杯お代わりをしながら、この家族の八十代のおばあちゃんの「ご近所も町の人も、伊勢の人はみーんな良い人ばかりなんでございます」という言葉を聞き、タクシーの運転手にも「伊勢はみーんな、良い人ばっかりなんですよ!」と言われ「そうなんだァ、だからあんなに、ふくふくと温かい味がしたんだァ」とハートマークで文章が結んであるのが、今思えば意味深だが、これは、息子の家族となる人の家を訪ねた訪問記なのだった。
 ケンタロウの料理は、初期のものは母の影響が強かったが、自身の研鑽と、料理本を出しているパートナーのセンスも加味された『ケンタロウの基本のウチめし』(オレンジページ)あたりから、主婦層だけでなく、若い世代の共感と支持を圧倒的に得るようになってきた。
 手こねずしの温もりが伝わってくる文章に母の安堵が込められている。こんなふうに、食べたものが家族の歴史を作っていくのだ。成し得なかったことを思いながら、二人の料理家の本を積み上げ、年の瀬を迎えた。
 皆様、どうぞよいお年を。
2013.12.29