『家なき娘』の春

長浜に遊びに行き、たまに立ち寄るお灸のショールームに寄った。いつもは、よもぎ茶を飲んで、手のツボに火を使わないお灸を貼って憩う程度の利用なのだが、今回は上岡龍太郎を彷彿とさせるきびきびしたお灸の練達が居たために何か様子が違った。「よく来てますー」とサービスの灸目当てのこちらの台詞には微笑みを返したお灸マスターは、「自分は血行はいいから灸なんて…」とお灸にてんで興味なさげな連れのほうをひっつかまえ、「あなたは眼が疲れやすいですよね。その負担が肩や腰にもいってますよ、全身はつながってますから」と、たちまち肩や肘にもうもう灸を据え始めた。全身を燻された体で「筋トレするから、筋肉痛だと思ってました」と、およそ身体の愁訴など言ったことのない人が、痛みの相談をしている…これもお灸の効果だろうか。こちらが手のツボに台座灸を据えてもらう間、連れは次々とツボの在処を訊ねては、腰や足三里に灸を据えてもらっている。羨ましく眺めながら、そばにあった鍼灸のツボの本を捲ってみると、灸とは様々な効能があるものだ。
店にはモグサも置いてあり、棒灸を差し込んで使う、一人でも温灸ができる器具は店で大変な人気だった。お灸は家族同士で据えてあげましょう、と推奨されているが、すぐできるようで、そうもいかないものだろう。
長浜に行ってすぐ翌日、定期通院の病院で、二時間くらい順番を待っていた。周りを見ると、大抵の人が端末を握りしめて何かしている。以前は居眠りをしている人が多数だったのに、と昨日覚えた足のツボを押しながら、ふと思った。ツボの発見にせよ、ヨモギを摘んでもぐさにした知恵といい、区切られない時間がどっさりないと、何にも無いところから手を使って何か探しだす工夫を人はしないんだろうな、と。
子どもの頃にアニメで見て、本も読んだ『家なき娘』。アンリ・マロのもう一つの作品『家なき子』よりずっと好きだったのは、リアリティの混じった空想が展開されていたからだろうか。主人公のペリーヌは、父を亡くし、母にも死なれ、ひもじさを我慢しながら、長い旅の末に祖父のもとに辿り着いた。母が憎まれていたために、素性を隠し、祖父の工場に通いながら狩猟小屋に住む。その生活がお話の中で一番惹かれるところだった。ナイフで生地を裁って靴や下着を作ったり、何とか工夫して魚を料理したり、一度は森で飢え死にしそうになっていたヒロインが、急にイキイキと闊達に生活を創りあげていくところが魅力的だった。
 マロは、産業が盛んになった19世紀という時代に対して児童文学の形を借りて、物を申したかったようだ。ペリーヌが、働く人にととって理想の職場を作るためとはいえ、会社の中で耳をそばだて、立ち回って祖父を動かすような場面もある。しかし、一日の終わりは湖の中の小屋で自分のために時間を使って、日々を満足のうちに終えている。
 思えば、いつかの春から、食べていくために働いてきたが、忙しいからといって、衣食住に関しては間に合わせで済ませ、時間が無いと言い言い暮らしてきた。世間の人は、大抵が「家族のため」や「将来の安定」のため、四苦八苦して仕事をしている。
自分は、この身しか養っていないが、生計を立てるのに必死なだけで、ここまできてしまった。身体も衰え、心細いかぎりだが、生活は変えられない。
 せめて、このなにもなさからペリーヌのようにすがすがしく生きていけたらいいのだけれど…と今更思ってみるが、やたら積み上げた本が視界を邪魔するのであった。