マリアからアリスへ

ここ数日、職場の冷蔵庫の野菜室に、大きな赤かぶが鎮座していた。どこかの誰かががよいしょ、よいしょと抜いてきてくれたのだろうか。漬物にしたら20人前はゆうにありそうな大きさゆえ、食事を調える時間の枠では、処理しきれないままだった。
 しかしさすがに葉っぱが萎れ、皮に艶がなくなってきたので。ちょっと塩で揉んでおこうと、葉を落とし、変色したところの皮を剥いて、蕪を刻んでいると、テレビから「アリス・ウォータースが…」というナレーションが聞こえてきた。 
 元々はモンテッソーリ・スクールの教育者で、1971年に「その時期に一番旬の、美味しいオーガニック食材を提供する」というレストラン「シェ・パニース」を開いたアリス・ウォータース。最近、日本でも「アート・オブ・シンプルフード」という大著が翻訳され、その他、様々なメディアによって、アリスの四十年に渡る食と農の実践に注目が集まっているようだ。
 テレビで放映していたのは、アリスが、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア中学校で、20年前から取り組んでいる「エディブルスクールヤード」(食育菜園)の取り組みだった。
 オーガニック農法の草に覆われた畑で子ども達がケールを収穫している。日本では青汁でお馴染みの野菜だが、「どうやって食べるの?」という問いに、子ども達が「オリーブオイルで蒸し焼きにして…」と作業をしながらこともなげに食べ方を語り始めたことに感銘を受けた。
 この映像を見るまでは、アリス・ウォーターの名前は知っていたけれども、今までの日本での語られ方は、洗練されたオーガニックレストランのオーナーであることが強調されすぎていたように思われる。「お洒落な都会生活での菜食には興味ないなぁ」と今まで、どうやら勘違いしていたが、今回、かぶを刻んでいたことが影響してか、収穫したものをおいしく料理したいという気持ちは、日本もアメリカも、そして子どもも大人も変わらないということが、やけに身に迫って感じられたのだった。
 ずいぶん前のことだが、大塚敦子『野菜が彼らを育てた』(岩波書店)という本で、カリフォルニア州の刑務所で行われている「ガーデンプロジェクト」について知ったl。受刑者が畑仕事に携わることによって、園芸療法的な側面では精神の安定を得、また、農作業のプログラムを受けることで、仕事面の社会復帰にも非常に効果があるといった内容だった。ちょうど、当時青少年の自立支援施設を訪れることがあり、そこでも畑仕事などをしていたが、態度が悪いと長時間草むしりなどという農作業の導入がされていて、どうしてそんな活用になってしまうのかと嘆息したことがあった。ちょうど近隣の県の同じような施設で職員が青少年に襲撃される事件があり、やはり何かというと延々と草取りや書き取りなどを懲罰にしていたという報道があり、「草取り=罰」という短絡的な発想は昔からあるが、一体どこから来たものなのか…とおおよそ園芸療法からは遠い農作業のありかたに暗い気持ちになったものだった。
 アリス・ウォーターが学んだモンテッソーリメソッドとは、イタリアで最初の女性医師となったマリア・モンテッソーリが提唱した教育方法である。日本では、なぜか様式化した早期知能教育のような形で導入されているが、もともとは、女性医師に門戸が開かれない病院が多い中、マリア・モンテッソーリは、やっと精神病院に職を得た。鉄格子で行動を制限されるような環境の中でも、発達に遅れがあるという子ども達が、自ら感覚刺激を遊びから見いだして育っていくを見て、マリアは気づきを得て、教育者としての歩みを始める。のびのびと安心感を持って育つことがが保障される環境を用意して、子ども達の発達を促すような感覚遊びを考案し、教育法として確立したものが、アメリカでは、アリスのような優れた教育者を得て、よりダイナミックな形で根付いていっているようである。
 マーチン・ルーサー・キング・ジュニア中学校も、もともとは落書きだらけの荒れた学校だったことをアリスが憂いて地元紙にコメントをしたことから、「どうすれば、この学校が健全になれるか、知恵を貸してくれませんか」と校長から相談され、食育菜園が始まったのだという。小学舘『アリス・ウォータースの世界』には、ある日の食育菜園の様子がスケッチされている。
 「ある日の授業でフィービーというひとりの生徒が、レタスの葉っぱを手に、光合成の説明を始めました。そして説明が終わると彼女はそのままみんなの目の前でそのレタスを切って水で洗い、次ににんじんと真っ赤に熟れたトマトを刻み、最後にドレッシングをつくってサラダを完成させました。フィービーは実際にサラダをつくって見せることで、サラダを食べることが植物のエネルギー、すなわち太陽のエネルギーを食べているのだということを、生徒に示したかったのです。(中略)教室はフィービーへの拍手喝采で包まれたのでした。」
 アリスは、ファニーという娘がパニースという年の離れた恋人と結ばれる古いフランス映画にちなんで自らのレストランに「シェ・パニース」と名づけたという。なかなかのロマンティストでもあるアリス。娘のファニーが主人公の『シェ・パニースにようこそ~レストランの物語と46レシピ』(京阪神エルマガジン社)には、ママのお料理ルールとして、5つのアリスの持論がやさしく説かれているが、「さいごに「だれかをしあわせにしたかったら、なにか体によくておいしいものをつくってあげること」。これママの口ぐせよ」という言葉に、「食育の実践者」とか「食の革命家」という厳めしい呼ばれ方とはまた違う姿を見ることができる。
 マリア・モンテッソーリの意思が活気と愛情に溢れたアリスに受け継がれ、今後どうなっていくのか、その未来が楽しみである。
2014.2.2