『昔日の客』への旅




このたび夏葉社さんから復刊の、関口良雄・著『昔日の客』が届いた。まず目についた「コロ柿五貫目」そして「父の思い出」の章を読んだ後、二回通読したところで、どうしても関口氏の故郷を見なくてはという気持ちになる。幸い飯田は、岐阜から近いので、弾丸も弾丸の小さな旅をした。

飯田は、高速を使えば、岐阜から二時間余りで行ける。しかし、今回は昼に出て、太陽があるうちに!と焦って走るうちにキャッシュコーナーのない山地帯に突入し、高速に乗れないので、昼神温泉経由で抜けて行ったせいで、ぐるぐると山を巡り、飯田に出たところは千日峰行を終えたような心持ちに。


飯田の郊外は秋祭りの最中だった。子どもが国道脇を山車を曳きながら、少し色づきかけた柿の樹の脇を通る。記念に撮りたい場面だったが、土地を知らないために、後続車の疾走に追われて、市内にどんどん入っていってしまった。
車を停めたのが4時近く、先程まで夏の光をたたえていた空が、枯れた黄色い色になり、かなたの空には夜の端のような雲が湧き始めている。


本を車に置いて歩きだしたので、『昔日の客』とはあまり縁のない町歩きになってしまっのだが、まずは、筆者の関口良雄氏が好きだったという当地の柿を、探し探し歩いてみた。


飯田も去年出掛けた伊那に似て、古い商店が残り、一歩進むごとに撮りたいものが多くて携帯カメラのメモリーがすぐ一杯になってしまう。百周年というキリスト教系の幼稚園の隣にはかつて医院だったと思われる木造の洋館や、昔に建てられ、保存の行き届いたモダンな教育会館がひっそり建っていた。
 そして、下伊那中学校発祥の後という石碑のあるお寺で柿を見た。こぶりなものが、ところどころ房のようになって、大方が青い顔を下に向けている。
 岐阜は柿の産地であり、特にこの季節は富有柿が道端の無人売店に、柿、柿、柿と些か食傷気味になるほど並ぶ。勤務先には長野の職員がおり、長野も柿はよく取れると話してくれていたが、現地に行ってみると、飯田の甘柿は、市田柿の名で有名なコロ柿のようには贈答に特化した柿ではないような気がする。地元の人が季節の楽しみに食べるためにあるほどよい姿だ。
「父の思い出」の中に、小学校三年の筆者の家には柿の木がなく、隣の甘柿が屋根に越境してきたのを「悠々と山を見ながら柿をかじった」挿話がある。屋根から降りたら盗った柿がころがり、「隣の嫁さん」と筆者の母に見つかり、隠れたものの父の前に座らされる「良雄ッ、お前柿好きか」「うん、すきだ」「よしッ。あしたから柿をうんと食べさしてやるから、早く飯を食え」というやり取りの後、父親は裏の家の柿の一本を向こう五ヵ年契約したという。「柿の木にまたがって食う柿の味は、柿の最高の味かもしれない。まして、色づいた四囲の山々を眺めながらの味は…」
筆者が十三歳の時、父君は五十五歳で早逝。しかし、しっかりと愛された記憶が氏に、生涯となる明るさを手渡したのであろう。
飯田は山を抜けた先にありながら、標高が高い土地のせいか、山は確かに四方にあるけれども、視界はひらけた町であった。氏は、故郷には久しく帰らなかったというが、東京にあっても、時に背広にどんぐりを詰めて寝転び、時に菱田春草の絵を思い浮かべながら枯れ葉を集めて歩き、本を読まない青年に「もう柿も色づいたことだろう。林檎はその赤い実を、枝もたわわに実らせたことだろう。」と呼び掛け、乞われれば木曽節や伊那節を歌う。関口氏は、見事に生きた信州人だった。飯田に行かなかったら、『昔日の客』に対してそんな印象は持たなかっただろうけれど。
 人は己の知らないところで、離れた生地の風光を宿し、生涯生きて行くものかも知れない。
 秋冷の風が吹いている日暮れ、思いがけず、大きな花火に見送られながら高速道路に上がって町を後にした。

追記 高速の手前にブックオフがあり、100円コーナーに天海祐希が宝塚にまだ在団中に出した詩集が置いてあった。紺の自費出版のような装丁で、若々しい詩が並んでいる。帰りの高速代、ガソリン代が心配なあまり見送ったが…あと何十年か経った後に差し上げたりなどしたら、天海さんも喜んだだろうか。あの方はシャガレ声にはなりそうもないが。

関口良雄『昔日の客』夏葉社のご案内はこちらより→夏葉社(なつはしゃ)HP http://natsuhasha.com/