年の瀬に小林カツ代を想う

年末は上京して神保町に行くことを楽しみにしていた頃があった。
本を買い込み、御茶ノ水駅から中央線に乗って吉祥寺に初めて行った時のこと、ちょうどお昼時で、めざしていたカレー屋が閉まっており、隣の小林カツ代のお粥のお店(今は閉店)に立ち寄った。お粥の味がどうだったのかは、もう記憶が薄れているが、年末ということで、黒豆を詰めた瓶が、店のテーブルに林立していたことを思い出す。
「これは我が家の味の黒豆ですよー」と独特の声が聞こえ、振り返ると、テレビ映りから思うと驚くほど小柄な人が立っていた。ファーつきの焦げ茶
色のコート姿だった。店内のカツ代ファンも大喜びだったが、この時はまだカメラ付きの携帯電話は普及しておらず、笑顔の店主が春風のように去っていく場面は、静かな記憶として残っている。
 「カツ代流ほのぼのおかずケンタロウ流思いっきりメシ」(講談社)には、親子で、どちらも売れっ子の料理家という二人の対談が収録されている。
 「カツ代「今何冊くらい本を出したの?」ケンタロウ「20冊くらいかな」カツ代「私は160冊。でもあの本屋での数を見ると、自信をなくすわ。もう出す必要なんてないんじゃないかと…」」これが2002年に出た本なので、現在の刊行点数はもっと多くなっているだろう。「カツ代「今後はどういう仕事がしたい?」ケンタロウ「ゆったりとした仕事(笑)。カツ代「そうね。でもかなわないわね。」(中略)カツ代「自分でちゃんと作って少人数でいいので、食べてもらえるようなお店をやりたいなと思う。」ケンタロウ「それはあるね。でも今の状態だと、客のために厨房に立つというのは無理だもんな。」カツ代「じゃあ、お互いに今後の夢は旬に添っていく。」ケンタロウ「そういうことですね。やっぱりオンタイムで一番おいしいところを食べてもらいたいね」」
ここに残された発言は、後に母はお粥の店、息子は『男子ごはん』などのテレビで、オンタイムの美味しさを提案して支持を得たことなどでそれぞれ成果を出している。驚くべき有言実行親子であるが、料理の仕事と共に阪神大震災でのボランティアや、様々な社会貢献や執筆活動の足跡を残し今はそれぞれ療養中である。
 料理の仕事は、創造した物自体が消えてしまう宿命がある。インタビューで小林カツ代自身も言及しているように、料理を紹介する媒体もすぐ消えていく。
 漫画家志望の若き日を綴った『青春どないしよう!?』(講談社)という著作もある小林カツ代は料理の仕事を従来の伝承型ではなく、育児も仕事も家事も抱えての忙しく生きたフィールドで、女性達に役に立つ情報を教え続けてきた。レシピ集は大冊はあるが、全体を俯瞰したものはないのが、残念だ。(2017年に中原一歩『小林カツ代伝』が出版された)
 2005年に小林カツ代が倒れる前年、2004年の『きょうの料理』1月号から「小林カツ代の料理にドラマあり」という連載が始まっている。大阪で育った著者が、親を追想する味から始まって、早くに結婚した友達と食べたなまり節ご飯の話など、この頁は一冊にまとまったのかどうか分からないが、毎回味わい深いエピソードが詰まっていた。(2014年に大和書房より刊行された)
2005年の4月号の「こねない手こねずし」は「以前、伊勢に代々住んでいる家族と知り合い、「ぜひ遊びに」と言われていたので、」仕事で伊勢に行った際、昼ごはんに訪ね、「かつおの手こねずし」を食べさせてもらったという顛末が書かれている。「「さあさあ、召し上がってください、せっかく来て頂きましたのに、たいしたものが出来なくて」と出されたものが、かつおの手こねずし。といっても手でこねたりせず、かつおかまぐろか分からないほどにつけた具がびっしりと酢飯の上に。」二杯お代わりをしながら、この家族の八十代のおばあちゃんの「ご近所も町の人も、伊勢の人はみーんな良い人ばかりなんでございます」という言葉を聞き、タクシーの運転手にも「伊勢はみーんな、良い人ばっかりなんですよ!」と言われ「そうなんだァ、だからあんなに、ふくふくと温かい味がしたんだァ」とハートマークで文章が結んであるのが、今思えば意味深だが、これは、息子の家族となる人の家を訪ねた訪問記なのだった。
 ケンタロウの料理は、初期のものは母の影響が強かったが、自身の研鑽と、料理本を出しているパートナーのセンスも加味された『ケンタロウの基本のウチめし』(オレンジページ)あたりから、主婦層だけでなく、若い世代の共感と支持を圧倒的に得るようになってきた。
 手こねずしの温もりが伝わってくる文章に母の安堵が込められている。こんなふうに、食べたものが家族の歴史を作っていくのだ。成し得なかったことを思いながら、二人の料理家の本を積み上げ、年の瀬を迎えた。
 皆様、どうぞよいお年を。
2013.12.29

まずいものは駄目です

 1986年に暮らしの設計シリーズから出た『土井勝の料理学校』(中央公論社)に、当時帝国ホテルの料理長だった村上信夫と料理家の土井勝の対談が収められている。
 両者ともテレビではにこやかで温和な人物だった印象だが、この対談は、野菜の流通や農協に物申すといった風で、当時の食の流行に対して、さまざまに警鐘を鳴らしている。
 この中の、栄養学重視の風潮についての会話が、普段の食事作りで頭を悩ませている自分にはピリッと参考になった。
 「村上 私のように料理をする者の立場からすると、たとえばキャベツは1枚1枚はがしてサッと洗って刻み、冷水に放してパリッとさせて食べますね。が、それは栄養学的にはビタミンが逃げてしまうからいかんと、栄養学の先生はいう。でも私は、おいしいものを食べたほうがいいと思うんです。」
 「土井 そう、そうなんです。栄養的には、切らずにそのままポリポリ食べたほうがいい。でも、それじゃあ、おいしくないですよ。やっぱり基本は、おいしいかまずいかですよね。おいしければ胃が働いて消化しようとする。ところがまずければ消化吸収が悪い。それに、おいしければ量もたくさん食べられるでしょう。私は、食べものというのは、絶対においしいというのが基本だと思うんです。そこに栄養というのがついてくると思うんです。おいしいものには栄養があるんですよ。」「村上 おいしいと消化液も出て、消化吸収が無駄なくできますしね。まずいものは駄目です。」
 大御所二人の「まずいものは駄目です」語録には非常な説得力がある。
 「村上 栄養、栄養といっても、見るからに食欲をそそらないものが多いですね」
 「土井 先生ね、私は1年に3日、人間ドックに入るんですが、院長先生と懇意なものですからね、私、こんな食事したら病気になるっていうんですよ(笑)検査中だからやむをえないとしてもね。いつ作ったのかわからない冷たいものを食べさせられる。病人食というのは、健康な人の食事以上においしくなければいけないんですよ。」
 いやー人間ドックに来られる病院の厨房もプレッシャーだったろう。
 今活躍の土井家の方が同じことを言っても、人に合った発言だなと思うくらいだが、土井勝に「こんな食事したら病気になる」などと言われたら、料理人は相当堪えることだろう。それで病院の食事が向上したという後日談がありそうな気もする。
 最近は、人に料理を作るのもただの作業になりがちだった。そんなところへ「まずいものは駄目です」とは、まあ響きますよね。
2014.9.17
 

春は食欲、本2冊

様々な書評欄に、篠田直樹『シノダ課長のごはん絵日記』(ポプラ社)が一斉に取り上げられ、 話題になった頃、一度書店で手に取ったことがある。
 著者の仕事柄(旅行会社勤務)のためだろう、パラパラ見た前半がヨーロッパの食の記述がびっしり、その後が有名なそば屋の記述、続いて豪華な寿司の絵が満載だったため、「これは楽しめるだろうか」とその時は手が伸びなかった。
 最近になって、地元の新聞に著者が岐阜在住であるというコラムを見つけ、この豪華な絵日記に急速に親近感が湧いて、再び読んでみた。
著者が食日記を書き始めたのは、1990年の27歳の時の福岡転勤がきっかけで、「食生活が乱れないように」「地元ならではの食を楽しみたい」という思いから、大学ノートに食の記録をつけ始め、五十代に至る今日まで続けているという。
たくさんの記録から、岐阜の店を拾って読んでいく。著者の愛する「開化亭」や「胡蝶庵」は普段行くには高級すぎるんだよなぁと頁を捲っていくと、たぬきそばの「更級」や、ラーメンの丸デブの名前が出てきて、昼ごはんに行きたくなる。
「宝すし」という名前が頻繁に出て来る。「自分の働いた金で寿司屋に通うになったのは25歳のころである。『宝すし』という寿司屋に初めて行き、若造の懐具合でも十分に堪能できる店に出会えてたいそううれしかった。宝すしへは25年間で347回も通った。」と「宝すし」愛が語られている。
 岐阜市に引っ越してきたという、とある年の桃の節句に、著者は「宝ずし」で食したつくし玉子とじ、菜の花のすごもり、旬の貝類やさよりを彩りよく絵日記に残している。追記には「つくしのほろ苦さに春を感じる。ここで昔作ってもらった山菜の天ぷらの握りや巻物も懐かしい。この店はつくしをよく出してくる。実物だけでなく、つくしの季節になると陶器でできたつくしの置物がカウンターに飾られる。」
 いや、おいしそうである。こちらは、専らシノダ課長も立ち寄るチェーンの回転寿司愛用者だが、気軽に立ち寄れて、実家のようにくつろげる店の良さは分かる。
 長良橋の北詰めにあった焼き鳥屋では、春になるとおばさんが山に行き、採ってきたふきのとうやこしあぶらでふきみそや天ぷらをこしらえて出して
くれたものである。ホタルイカやあん肝の味もその店で覚えた。春が来ると、もうとうになくなった「若竹」のことを思い出す。
 日記は続かない性分なので、食べ物日記、外食日記、読書日記をつけているというシノダ課長のあとがきの言葉には驚いてしまったが、ハレの日ばかりでなく普段の暮らしをこよなく大事にしているという気持ちが『ごはん絵日記』には溢れていた。
 『シノダ課長のごはん絵日記』と隣あっていたので、興味があって購入した佐々木俊尚『家めしこそ、最高のごちそうである』(マガジンハウス)という本でも、読んでいくと「日常を大切にする」という言葉に目が止まった。
 新聞社の激務で寿命を縮めるほどのダメージを受け、今は「いまこの社会で起きていることの意味を捉えて、それを概念化して言語に変換し、読者に提示すること」という姿勢でのジャーナリストの仕事と家事と両立している著者。
「いまの時代は、とても不確実です。不確実で、流動的です。先のことは誰にもわからないし、予測できません。」という不確実であることしか真実ではない今の時代を生き抜いていくには、日常を「きちんと生活すること」が、これからのステイタスであり、自己表現なのだというのが本書の趣旨らしい。
 この本は、冒頭から『向田邦子の手料理』をうまく使って70年代の日常食を紹介しているが、他にも海老沢泰久の『美味礼賛』、田辺聖子『春情蛸の足』、檀一雄『檀流クッキング』、スタインベック「朝めし」など食の名作が顔を出す。第3章を読んで、「この論の立て直かた、玉村豊男の『メンズクッキング』に近いものがある」と思って読み返してみると、調理用具は単純でいいという文章に、玉村豊男『料理の四面体』が尊敬をもって紹介され、アルジェリアでの印象的なトマトシチューの場面が引用されていた。
 家庭の味が「ほんだし」だったという筆者の原体験。そこから美味しそうな手料理を写真つきで公開する現在に至るには、様々な食の体験と読み込んだ料理書がきっと「家メシ」の範疇を越えるくらいにあったと思われる。しかし、そこから美食探求に行かず、日常が一番大事だという結論が示されている所が面白い。その原点回帰が、今の時代に共感を呼ぶところなのだろう。
 食べた料理も読んだ料理書も、人となりを形成する人生の刻みのような役割がある…ああ、寿司が食べたくなった。
2014.3.17
 

料理人という職業

久しぶりに近所の図書館の分室に寄ってみれば、住んでいる市の図書館が新築されるのが影響してか、蔵書がごっそり減っていた。
大人用の棚に比べて、まだ児童書の棚のほうが本が並べてあるので、子ども用の料理書を眺めていると、『うまいぞ!料理人』(くさばよしみ著 高橋由為子画 フレーベル館)というタイトルの一冊が目についた。
 自分が小中学生の頃には、「なるにはシリーズ」(ぺりかん社)という、子どもが憧れる職業についてのガイド本がどこの図書館にも置いてあり、小学生の時は愛読したものだが、今やこの手の本は、偶然がなければ絶対読まない本である。
 この本もよく見ればペリカン社の『料理人になるには』も参考文献にあげてあるが、実際のシェフや料理長に取材した情報をもとにしてはいるものの、従来のようなルポルタージュ風ではなく、子どもが関心を持つような、構成にしてあった。
 「料理長の道」と題した章には、まず、フランス料理のステップアップの説明がある。ゲームの攻略図のような絵が添えられている。まず見習い、次にアントルメティエ(野菜の皮むき係)、ガルドマンジュ(下ごしらえ係)、ロティスリー(焼きもの係)、ポワソニエ(魚料理係)、ソーシエ(ソース係 シェフの右腕)とそれぞれ段階の説明があって、次は日本料理で一人前になるまでの、追い回し、八寸場、回し場などの七段階の解説がある。
そして中国料理を見ると、急に、見習い、デシャップ、まな板、なべの四段階となっているが、大人としては、何の料理哲学が反映されて、段階が多かったり、短かったりするのか、気になるところだ。
後半のQ&Aに「料理人に向いてるのは、どんな人ですか?」とあり、日本料理の料理人歴8年のEさんの答えが八個のスピーチバルーンに記されている。
第一条件は「食べることが好き」に続いて、「体力がある」「協調性がある」「てきぱき動ける」「がまん強い」「集中力がある」「先が読める」「負けずぎらい」と何だかアスリートの条件のようである。
 いろんな生産者や加工業者の最終ランナーに料理人は位置していて、「おいしい」という言葉を聞くのが、仕事を続けるモチベーションだと結ばれていた。
 ちょうど、一緒に読んでいた『クロワッサン2014年2月10日号』(マガジンハウス)の「わたしきのうきょうあした254」に「湯島食堂」店主、本道佳子さんの記事(文・一澤ひらり)が載っていた。以前、船越英一郎の番組を観ていた時に、この食堂が紹介されていたことを思い出した。出演者が熱心に料理を紹介していたが、たぶん、肉好きで、こってり系が好きそうな船越は、さほどでもといった様子で野菜料理をつついていたっけ。
 1964年生まれの本道さんは、料理を学んだことはなく、25歳でニューヨークに行き、最初は行きつけのケーキ屋から始まり、さまざまな飲食店で働いてシェフになったという。「ハドソンリバークラブの」スーシェフを経験後、西海岸でオーガニックの料理に出会い、その影響から、今、湯島食堂で出している料理も植物性メインのものらしい。
 記事は、東日本大震災二週間後に湯島食堂を訪れた女性が、出された料理に感動し、後に店のマネージャーになったという、店で起こる「そんな小さな奇跡が湯島食堂では日常茶飯事だ」という紹介から始まっている。では、実際に作られている料理はどうなのだろう、とWebで評判を見ると、玄米菜食に慣れた人にはその丹精が分かるといったメニューのようだ。
 本道さんの信条がこう紹介されている。「お母さんが毎日作る食事には、子どもが元気に育つように、平和で明るく生きられるようにという願いが、無意識のうちに込められていますよね。私はそれをお店でやりたいだけなんです。野菜料理を食べて自分にとっての素敵な未来、『私ってこんな感じ』を想像してもらいたいんですよね」
 今、「料理人になるには」という本が子どもに書かれるとしたら、双六のような上がりではなく、料理を仕事にする人には多様な価値観があるということを伝えてもらいたいものだ。 
 湯島食堂では従来「ミラクルランチ」としていたものを最近、「ライクディッシュ」に改めたという。そのほうが確かに感じがいい。
 言葉では到底伝えられない領域へのコミュニケーションが料理ならできるということを、どんなへなちょこな料理人でも一度は経験する。それを当たり前のことにしていっているのが、湯島食堂の一皿なのだろう。
2014.2.9

春の病室

身辺に入院する人があり、暫く付き添いをしていた。
 必要なものを買い集め、検査も終わり、点滴が始まると、そこから時間が経つ速度が極端にゆっくりになる。
 食事時になると隣のベッドの人にミックスジュースのようなものが入った筒が用意される。胃ろう用の栄養剤のようだ。
 何も口にしていないのに、胃に栄養剤が送り込まれると、せわしい呼吸音で部屋が満たされる。
 こちらの病人には、全がゆ、八宝菜のミキサーにかけたもの、鳥ミンチを出汁で煮たものが出た。
入院直前はお粥も飲み込みづらそうに噎せていたが、病院に来てからは、食べて噎せることが格段に減った。ただ、食べるまでは、胸から音は出なかったのに、食べるとごろごろ痰が絡んで、隣のベッドと二重唱になる。
 『中勘助随筆集』(岩波文庫)の「妹の死」には中勘助が『銀の匙』を執筆中、余命いくばくもない妹を看病した日々が綴られている。
 夫と子どもを残していくことを、気がかりにしながらも、その妹は、兄勘助に甘えることで恐怖を紛らわせようとしていたのだろうか。
 苦しがる病人に氷を含ませたり、気を引き立てることを口にしながら、勘助は誰よりも長く妹の傍らにいた。
 「氷を割る」には、病を得、身体の自由がきかなくなったことを嘆く嫂に対して、兄が苦労をかけたからだと憤り、ひとかたならない愛惜の言葉を寄せている。
 その嫂にも氷を含ませたことが書いてあるが、弱っている人に無理に水を飲ませるとむせてしまうから氷を用意したのだろう。
 反りの合わない兄金一を長く介護した経験もあり、身内が倒れると、仕事そっちのけで傍らにいた中勘助。実は介護の腕もなかなかだったのではなかろうか。
病室で過ごす時間があったせいか、今までそこだけ読み飛ばしてきた作家の闘病記や、看護日記などが気になってきた。今なら、何か新鮮な気持ちで、そうした記録を読むことができそうな気がしている。
 そんな気持ちになったのは、老いや病、そして死に対してやっと自覚が芽生えてきた顕れかもしれない。
町の桜もすっかり散って、看ていた人は退院が決まった。まだむせるようだから食事も気を配って用意しなければ。
今日の膳を用意して、一匙一匙を見守って細やかに見てくれているのは、外国から来た介護職の人だった。笑顔に和んで、病室の人達も食がすすんでいるようだ。いや、見習いたいものである。

2014.4.12

あの日のやきそば

仕事の一部であるグループホームの朝食づくりも、時と共に経験値が上がるにつれ、何とか軌道に乗ってきたが、諸事情から少しハードルがあがった。他のホームにも配食する必要が出て作る量が増えたためである。
食数が増えても、朝食なので、ヘビーローテーションの献立といえば、野菜の煮たのか炒めたもの、卵料理、ウインナー、高野の卵とじ、ビーフンだか春雨を使った料理、サラダなどあっさりしたものが多いのだが、今までの感覚で作ると、食材の嵩が足りない。
 家事のことを主体に取り上げた雑誌には、よく「カサ増しメニュー」という言葉が踊っている。おかずの味を変えてしまわない野菜や乾物でおかずの体積を増やすという意味の言葉だが、このところ、葉物が高騰しているので、嵩を出すのも大概でない。
 今日も今日とて嵩を求めてスーパーをうろつき、やきそば三食パック198円という特売を見つけた。よしよし、これはありがたい。賞味期限が長いのをいいことに幾つか買い込む。粉ソースのついているタイプのものである。
 次の朝、野菜や肉を炒め、火が通りかけたところで麺を投入した後、少し水分をいれて蒸し、麺をほぐして粉ソースを投入して味をつけた。
 出来上がったやきそばは薄味で、麺にところどころ焼きすぎの部分が出てしまい、全体的にまだらな感じである。どうも、仕上げあたりで同時に目玉焼きを焼いていたのが敗因だったような気がする。苦情はこなかったが、買い込んだ麺がまだ、たくさんあるので、休日の昼にも作ってみた。
 火を通した具に麺を入れて更に炒めると、具もシャキッとしないので、焼そばはレンジで熱を入れ、投入して液体のソースで炒め合わせた。味は多少濃くなったが、ソースの糖分のせいか何なのか、やはり麺が焦げる。
 「何でこんなに薄味で、麺が焦げるんだ」という自問自答が口から漏れていたのだろう。それから日を置かず、他の職員が、昼にやきそばを作ってくれた。味は濃く、麺がつやつやした茶色で、少なめの具には焦げがない。その人のコツは、麺と具を別々に炒めて、麺を炒める時に油をケチらないことと、粉ソースの場合、麺の味つけをしっかりしてから具と合わせるといい、ということだった。
 同じ材料を使いながら、こんなに違う形状のものが出来てしまうことに驚きながら『ビジュアル版 調理以前の料理の常識』(渡邊香春子 講談社)を開いてみると、「焼そばは、麺に少し歯ごたえがあるほうがおいしい。そのためには、最初に麺だけ少し焦げ目がつくくらいまで焼いておくこと。ここで麺の表面を固めておくと、野菜と混ぜてもべたつかず、歯ごたえのバランスもとれる。」とある。
 麺を焼きつけて、歯ごたえの違う部分が出てもいいようだが、自分の知っているソースやきそばは大体ソフトな仕上がりのものが多いので、念のため、『ESSE別冊 そこが知りたかった!料理の基礎』(調理・伊藤睦美/樋口秀子 フジテレビジョン)を見てみると、「固まってなかなかほぐれない蒸しそばも、電子レンジで加熱しておけばぐっと簡単に。電子レンジがない場合は、まずそばだけを先に炒めて取り出しておき、具を炒めてから合わせます」とある。92年に出た本なので、「電子レンジがない場合は」とあるが、このあたりから、「麺をレンジで加熱しておく」という下拵えはどうやら一般化してきたようだ。
 2010年の『オレンジページ2/17号 「3玉焼きそば」アレンジ」には、「袋から出した麺をそのまま炒めたら、麺が切れたり、固まったり…。そんな失敗を防ぐには、麺を炒める前のひと手間が大切です。まず、耐熱皿に麺を2玉のせ、酒大さじ1を回しかけて、手でかるくほぐします。あとは、ふんわりとラップをかけ、電子レンジで1分ほど加熱し、取り出して軽く混ぜればOK。」とあり、2013年の『stillさんのはじめてのお料理』(宝島社)の「絶品ソース焼そば」には、特にエキスキューズもなく、「麺は袋から出し、電子レンジで40秒加熱しておきます」と野菜や肉と合わせる前の手順として書いてある。
 シンプルなやきそばと言えど、時代によって作り方はいろいろ変化してきているが、違いが出やすいものだけに、やきそばには、それぞれの家庭の味が反映されやすい。
 小学生の頃、土曜に剣道の練習を終えて家に帰ると、パンメーカーがおまけでくれる白い皿に、よくやきそばが作り置きしてあった。寒い地方に住んでいたけれども、あたためもせず食べたものだ。冷たいまま食べると肉はきしきしとした噛みごたえで、キャベツはくったりとして、じつに淋しい味がした。
 最近、実家に帰っても、こういうやきそばが出ることはない。孫達に作るやきそばはふわっと柔らかく具だくさんなものだ。父は「かあさんの料理はうまいんやで」とよく言うようになったが、自分が家にいた頃、母親が料理上手だと思ったことはあまりない。昭和60年代当時の母は、螺子工場のパートにえらく打ち込んでいて、朝出ていくとなかなか帰ってこず、家にまで検査の仕事を持ち帰ってゴロゴロ深夜までやっていた。それ以前、団地に住んでいた頃は出来合いのものを殆ど食べたことがなかったため、逆にレトルトのハンバーグに憧れたものだが、昭和51年に引っ越してから、母の料理は出来合いと手間抜きの時代に突入。
買ってきたウズラ卵のフライと焼き肉のタレで炒めた肉野菜のが本当によくおかずに出てきたと、恨みがましく母親に言うと「そんなことあらすか、あんたの勘違いやて」とぬか漬けの具合を見ながら、母が言い返す。
教師の仕事を完全に引退して、畑を耕しながら四六時中家にいる父にとって、ちゃんとした母の手料理が還ってきたことは喜ばしいことに違いない。しかし、私にとっては、多忙に侵食されて不味かったとはいえ、あのやきそばも郷愁の味である。
母親の出してくれた野菜がシャキッと美味しい焼き豚を使ったチャーハンを食べながら、昔に食べた、冷凍のミックスベジタブルが具の味気ないチャーハンの味を、どこかで探してしまう。これはどうやら一生続きそうである。
2014.12.24

盃をほした詩人

いつまでもコートをしまえないような気候も一段落したと思ったら、あわただしい年度末がつむじ風のようにやってきた。オズの魔法使いのドロシーよろしく急に新年度の平原に放り出されたかと思えば、もう桜が散りそめている。
こんな時期に読むと、しみじみとした気持ちになる詩がある。中桐雅夫の「会社の人事」は、勤め人なら誰しもどこかに持つ、あきらめてきたことどもへの哀感をうまく掬いとっている。
人一倍愚痴っぽい身の上としては、詩の前半の、酒席でクダをまく人のスケッチに苦笑すると共に「子供の頃には見る夢もあったのに/会社にはいるまでは小さな理想もあったのに。」の結びを見て、何となく生きてきてしまった越し方を省みることとなる。
 『美酒すこし』は中桐雅夫の妻、中桐文子の自伝である。中桐雅夫のことや、「会社の人事」の背景を知るために
手にとったが、この本を読んでも中桐雅夫の仕事のことは、あまり見えてこない。読み取れるのは、坊っちゃん育ちの夫と無遠慮な姑に翻弄され、戦後の生活苦を必死にやりくりしきった女性の苦闘である。
 中桐雅夫と文子は、文子が最初の結婚に破れ、神戸で英文タイプやピアノを習い、文学にも親しんでいた頃に学生だった雅夫と出会った。戦時下、文学を志す若者への弾圧から必死に逃れ、追い立てられるような状況下で結婚。
 「おかずを煮る。鉢にあけて、たったひとつの鍋を洗い、おつゆを作る。できあがったものを並べるところもない。まごまごして小さなちゃぶ台を上がり框にひきよせ、配膳台の代わりにする。何とか知恵を絞ってやりくりしているのに、彼は酒のないのが寂しくてしょうがないのだ。」
 最近、平林英子や、保高みさ子など、家庭を支え、あらゆる賃仕事で収入を得、実は夫より筆で稼いでいたんじゃないかという文士の妻の自叙伝を立て続けに読んでいたところだ。どれを読んでも必死に稼いだお金を呑まれたり、相談なく事業に使われたりという悲嘆が共通する。「何をそこまで、そんなにしてまで支えるのか…」と疑問が湧いた。愛憎というものが濃い時代は、家計がどうであれ、所帯を持つことに日本人の大半が意味が見いだせていたようだが、今の世の極端な非婚は何が原因なのだろうか。
 ピアニストになりたかった文子が、ミシンで賃仕事を請け負い、必死に稼いだとさらりと書いてあるが、確かに自分に記憶がある40年前は、服といえば母親が縫ってくれるものだったが、料理技術も必要がなければ落ちてゆくが、裁縫だってそうなのだろうな…と本筋と関係ないところで筆者の生活力に圧倒された。
 この本の最後には鮎川信夫が中桐雅夫に対して追悼文が載っている。友人の妻に対して労りに満ちた長めの解説があるからこそこの本は印象に残る一冊となっている。
 中桐雅夫は生涯愛した酒によって病を得、ある日書斎で倒れて絶命したという。
 何をそこまで飲んでしまうのだろうかと、酒に救われたことが無い者は思ってしまうが、それこそ人事異動で慌ただしい毎日、たまには花の下で盃を傾けて、心を満たせたらな、としみじみ思ったのだった。
2014.4.4