『家なき娘』の春

長浜に遊びに行き、たまに立ち寄るお灸のショールームに寄った。いつもは、よもぎ茶を飲んで、手のツボに火を使わないお灸を貼って憩う程度の利用なのだが、今回は上岡龍太郎を彷彿とさせるきびきびしたお灸の練達が居たために何か様子が違った。「よく来てますー」とサービスの灸目当てのこちらの台詞には微笑みを返したお灸マスターは、「自分は血行はいいから灸なんて…」とお灸にてんで興味なさげな連れのほうをひっつかまえ、「あなたは眼が疲れやすいですよね。その負担が肩や腰にもいってますよ、全身はつながってますから」と、たちまち肩や肘にもうもう灸を据え始めた。全身を燻された体で「筋トレするから、筋肉痛だと思ってました」と、およそ身体の愁訴など言ったことのない人が、痛みの相談をしている…これもお灸の効果だろうか。こちらが手のツボに台座灸を据えてもらう間、連れは次々とツボの在処を訊ねては、腰や足三里に灸を据えてもらっている。羨ましく眺めながら、そばにあった鍼灸のツボの本を捲ってみると、灸とは様々な効能があるものだ。
店にはモグサも置いてあり、棒灸を差し込んで使う、一人でも温灸ができる器具は店で大変な人気だった。お灸は家族同士で据えてあげましょう、と推奨されているが、すぐできるようで、そうもいかないものだろう。
長浜に行ってすぐ翌日、定期通院の病院で、二時間くらい順番を待っていた。周りを見ると、大抵の人が端末を握りしめて何かしている。以前は居眠りをしている人が多数だったのに、と昨日覚えた足のツボを押しながら、ふと思った。ツボの発見にせよ、ヨモギを摘んでもぐさにした知恵といい、区切られない時間がどっさりないと、何にも無いところから手を使って何か探しだす工夫を人はしないんだろうな、と。
子どもの頃にアニメで見て、本も読んだ『家なき娘』。アンリ・マロのもう一つの作品『家なき子』よりずっと好きだったのは、リアリティの混じった空想が展開されていたからだろうか。主人公のペリーヌは、父を亡くし、母にも死なれ、ひもじさを我慢しながら、長い旅の末に祖父のもとに辿り着いた。母が憎まれていたために、素性を隠し、祖父の工場に通いながら狩猟小屋に住む。その生活がお話の中で一番惹かれるところだった。ナイフで生地を裁って靴や下着を作ったり、何とか工夫して魚を料理したり、一度は森で飢え死にしそうになっていたヒロインが、急にイキイキと闊達に生活を創りあげていくところが魅力的だった。
 マロは、産業が盛んになった19世紀という時代に対して児童文学の形を借りて、物を申したかったようだ。ペリーヌが、働く人にととって理想の職場を作るためとはいえ、会社の中で耳をそばだて、立ち回って祖父を動かすような場面もある。しかし、一日の終わりは湖の中の小屋で自分のために時間を使って、日々を満足のうちに終えている。
 思えば、いつかの春から、食べていくために働いてきたが、忙しいからといって、衣食住に関しては間に合わせで済ませ、時間が無いと言い言い暮らしてきた。世間の人は、大抵が「家族のため」や「将来の安定」のため、四苦八苦して仕事をしている。
自分は、この身しか養っていないが、生計を立てるのに必死なだけで、ここまできてしまった。身体も衰え、心細いかぎりだが、生活は変えられない。
 せめて、このなにもなさからペリーヌのようにすがすがしく生きていけたらいいのだけれど…と今更思ってみるが、やたら積み上げた本が視界を邪魔するのであった。

何を探してこの道を

ピック症候群の妻を介護する男性がテレビで紹介されていた。六十も後半に差し掛かった妻が急に甘いものを好んで食べ出し、おかしいなと思っていると豆腐や大根など毎日同じものばかり買うという不可解な行動が増えていく。そしてついにピック症候群に特有の極度な徘徊行動が始まる。妻が無事であるようにと、夫は不眠不休の介護生活に巻き込まれ、やがて体力、気力の限界を感じるようになった。知人のアドバイスにより介護の支えを求めて介護施設を頼っていったものの、あまりの行動の激しさに、ピック症候群は見られないと軒並み断られる。「まぁ、いっしょに死のかって思いましたねぇ」と坂上二郎によく似た温顔の男性は中京圏のイントネーションだった。
結局、妻の介護を引き受けてくれる施設が見つかり、ナレーションでは「専門家のおかげで奥さんは落ち着きました」という結末になっていたが、見たところでは、グループホームぐらいの規模の生活施設のようである。きっと僅かな人員をやりくりして、困窮した家庭を支えているんだろうと想像して、溜め息が出た。
 公開中の映画「チョコレートドーナツ」にも、主人公のダウン症の少年が、養護施設に収容され、そのたびに出ていってしまうという情景が何度か出てくる。主人公のチャーミングな演技が光っているだけに、ラストの寂寥感といったらない作品だが、夜の市街を人形を抱え、彼は何を探して歩いていったのだろう。
 数年前に逝った父方の祖母は、白内障の手術がもとで認知症がすすみ、ある時期は、目が悪いはずなのに、夜中になると戸外に出たりするので目が離せなかった。ある時、明け方に目が覚めて外に出ると裸足の祖母が畑にいた。何に駆り立てられたのか。すべてが青い中、白っぽい寝間着で全くの無表情で立っていた姿が忘れられない。
 春に流れていたニュースによると、認知症やその疑いがあり、徘徊などで行方不明になった人が2012年には、警察に届けられたケースだけで9607人になったという。このうち、死亡が確認されたのは112人。三割が独居ということだ。
 ニュースは、行方不明になる前の手立てとなる行政対策を報じていた。
 しかし、この人口の減少一方の日本で、一万人にも及ぶ人が、どこかを目指して消えていくというその心理や脳の働きについては、ぼやっとした説明しかないのが、そういうものかなと思いつつ、そんな程度の解明では太古の昔とそう変わらないじゃないの、とふたたび溜め息が出る。
 出ていってしまった人を何時間も探して、やっと見つかった日に作ったかきたま汁の味は忘れられない。それを啜った瞬間の安堵は、今も思い出すことができる。
 リメイクされた「若者たち」のテーマソングが街に流れているが、あの歌を聞くたび、複雑な気持ちになる。あれは、今の若者に捧げられているのではなく、かつての若者が何処かに大量に消えようとすることへの悲痛な呼びかけのように、この耳には聞こえる。
2014.8.9

食べて飲んで愛を歌えば

イギリスのオーディション番組で、初代の優勝者となり、今は歌手となったポール・ポッツの自伝的映画「ワンチャンス」が公開された。
映画を観る前に、ポール・ポッツが自分よりいくらか年下であることを知った。本人も「まだ生きているうちに自伝的映画が作られるとは」と来日時に発言していたが、フィクションが含まれているとはいえ、映画に出てくるポールの周囲の人々が、現役で社会生活を送っていることを思うと、世渡りの上手ではないポールをからかってきた同級生が、勧善懲悪的に罰を受ける展開が、小気味いいとはいえ気になった。
 とはいえ、映画自体はウェールズの一般的な青年の生活を垣間見るような感じで、気楽に楽しめる。今、43歳のポールが、二十代後半から近年歌手としてデビューした話が中心のはずだが、彼の地元で過ごす日々は80年代の洋画に出てくる田舎町の世界に近い。ウェールズは合唱とラグビーが盛んで、ポールの父はラグビーで鳴らした過去に気負いがあり、歌を選んだ息子を全く認めない。
 ラグビーをやらなくてもポールには歌があって、そっちに打ち込めてよかった。今はもっと選択肢があるのだろうが、と子どもの頃、山間の町でスポーツ少年団で剣道をしていたことを思い起こす。防具も胴着も誰かのお古を借りて、しこたま叩かれて上達もしなかった。辞めることも思いつかずに竹刀を振り回していたが、土曜の午後の吉本新喜劇も見られず、ラジオも聞けず、選択肢が剣道かソフトボールかという小4からの二年間は、運動向きではない人間には辛かった。 
 学生時代は、スポーツに打ち込み、卒業したら地元の堅い職に就き、夜に一杯ひっかけて寝るのが最上、というポールの父の説教は、まんまこちとら郷里の居酒屋でも聞けそうである。「おまんもよー、よったようなことしとらすと、ちゃんとせなだしかん」(あなたもふらふらしていないで、きちんとした仕事に就きなさい)と、しまいには字幕の文字が頭の中でいちいち田舎の言葉に置き換わってきたくらい、現実味のある台詞がひびく。
 最近の話なんだなーと気づかされるのは、メル友が人生の伴侶になるとか、チャンスがネットから転がり込むなどの場面である。
 「ワンチャンス」とは、転機になったオーディションのことを指すのだろうが、ポールは三歩進んで二歩下がりながらも、小さなチャンスをいくつもものにして、大きな賭けに繋げたように思われる。奇跡的な事柄が映画になっているわりには、驚くというよりは、「それだけの準備をこの人はしてきたのだ」と逆に納得させられる話運びだ。
 この映画には、食事の場面がポールの内面を表現するトピックとして使われている。最初の朝食の場面では、次々と盛られるボリュームいっぱいの温かな料理から、ポールがたっぷりの愛情を母から注がれて育ったことがよく分かる。度胸はないが、自己肯定感は確固とあるというパーソナリティはここから来たのか、と読みとれた。留学先で、仲間のおばあちゃんにパスタを振る舞われ「あんたはそのままで歌えばいい、可愛いおデブちゃん」と頬をつままれている微笑ましい場面もある。
 妻に寄りかかって生きる日々のエゴも疲れて帰ってくる妻を待たず、先に夕食を食べてしまうという姿で表されていた。
何かと慌ただしい年度末、難しいことを考えず、ただ楽しむのには最適な一本であった。
2014.3.24

イスキアはいずこに

五月の初め、ついでがあって、吉母という浜を訪れた。
 連休中のよく晴れた日だったが、人影といえば、海辺では子どもが二、三人釣りをしているくらいだった。海水浴の季節以外は誰も来ないのだろうか。
 砂の透けてみえる透明な海が珍しくて、何にもない浜をただ眺めて時を過ごした。そのうちお腹がすいてきて、道の駅で買った鳥飯のおにぎりを食べたら、いつもは、胸につまってくるような気がして、一個で充分なところなのに、これがいくらでも入る。
 学生時代、バイト先の焼き鳥屋のおばさんと、山菜を取りに行った時に、二人で海苔のおにぎりを「山は空気が違うからだよ」と言いながら六個ほど食べてしまったことがあった。心がほどける場所だと、おにぎりも格別の味になるのだろう。
 岩木山の麓で、「森のイスキア」という心悩める人々が集う場所を主宰している佐藤初女さんの『愛蔵版 初女さんのお料理』(主婦の友社)という新刊に、「おいしいおむすびを作るには」という章がある。
「おむすびを見ただけで、亡くなったお母さんやおばあちゃんを思い出して涙がこぼれる。おむすびには言葉にできない深いものが秘められている。そんなふうに思います。「イスキア」に見えるかたもみなさん、「おむすびを食べさせてください」と希望しますので、わたしはほとんど毎日作っています。おむすびを食べると、みなさん落ち着きます。おむすびをおいしくにぎれるだけでも人に慰めを与えることができると思うと、おむすびをにぎるというのは小さいことのようだけれど、大きいことなのだと感じます。」
龍村仁監督「地球交響曲 第二番」で、ジャック・マイヨールダライ・ラマに並んで、森のイスキアでの活動が紹介されたのが95年だという。この映画で梅仕事や独特のおむすびが有名になり、この二十年近くは、「糧をわけあう」といったそれまでのありかたとは、桁違いの量の需要があったことだろう。食べたいからと言う人にまで梅干しを準備するにも大変なことだろうなぁと下世話にも思ったが、『佐藤初女さんの心をかける子育て』(小学舘)にも、初女さんのおむすびは載っているが、いくら取り上げられても、初女さんの手つきの丁寧さは変わらないようだ。
佐藤初女さんの心をー』には、自死を選ぶつもりでいた人が、家族の勧めでイスキアを訪れたものの、一晩眠れず、やはり死への迷いを抱えたまま新幹線で戻ることになった時のエピソードが紹介されている。イスキアでは何も食べられなかったその人は、初女さんが持たせてくれたタオルにくるんだおむすびを食べようとして、海苔が湿気ないようにしている心づかいに気づき、「自分のためにこのように心配してくれる人がいるのに、なんて馬鹿なことを考えていたのだろう」と家についた頃には元気になり、今は死と生を考える会で活動しているのだという。
佐藤初女『おむすびの祈り 「森のイスキア」こころの歳時記』(集英社文庫)には、なぜ創設した場所にイスキア島の名前をつけたのか、イスキアにまつわる伝説が紹介してある。ナポリの大富豪の息子ですべてに恵まれた青年が、美しい娘と愛し合うが、愛が受け入れられ、満ち足りた思いも束の間、どうしようもない倦怠と虚脱に襲われ、以来何をする気にもなれなくなってしまう。子どもの頃の生き生きとした自分を取り戻したいと、子どもの頃に行ったことのあるイスキア島へ青年は再訪。廃墟となった教会の司祭館に住む。
「地中海に浮かぶイスキア島から眺める風景は静寂に包まれ、夜になると塔も城壁も月光を浴びて光り、一幅の絵のような美しさでした。この美しい風景を眺めながら、青年は自分自身を見つめ、新たな力を得て現実の生活に立ち戻ることができるようになりました。この物語から、私たちも、どうにもならない心の重荷を感じたとき、そこへ行けば癒され、自分を見つめ、新たなエネルギーを得ることができる、そんな場になってほしいと、私たちの家をイスキアと名づけたのでした。」
吉母の浜で明るい海を眺めながら、胸にある日々のささくれが静まる感覚があった。やはり場所の持つ力というものはある。
佐藤初女さんの、料理本には、身近な風物や草木、手仕事、料理に宿るイスキアの心が説かれている。
イスキアとは青い鳥の物語のようなものかもしれないと思いながらも、これを書きながら、いつかは海のそばに住んでみたい、と急に44年も住んだ海無し県から脱出したくなっている5月なのであった。

2014.5.17

一皿が紡ぐ縁

     狐野扶実子『世界出張料理人』(角川書店)は、 駐在員の妻であった著者が料理を学び、 三ツ星レストランの副料理長を務めた後日譚が収められている。 縁に導かれるままに出張料理人に業種転換した筆者の五年間の挑戦 は、まさに孤軍奮闘という言葉がふさわしい。
  良い食材が見つかるとどうしても顧客のために使いたくなり、 前に仕入れたものを自宅用に自腹で払うなど、 ビジネスというには、 儲け度外視すぎる特殊なやりかただったようだが、 設定された場にふさわしいメニューを探し続ける熱意や、 食材への探求心、料理の芸術性が評判にならないわけがない。 家庭のお祝いから、ルーブル美術館のパーティー、 ナポレオンの眠るアンヴァリッドでの婚礼、政治対話のディナー、 優れた料理人のフィールドは広い。
 ただ、きちんと準備や手配をしても、何かしらトラブルは起こる。 大荷物があるのに訪問先のエレベーターの暗証番号が分からなくて 待ちぼうけ、 周囲の冷蔵庫がたて続けに壊れまくって食材への影響にはらはらし たり、イベントが盛り上がってせっかくの料理が食べ残されたり、 係留してある船の邸宅で船酔いになりながら料理を作った揚げ句、 猫に魚を取られるなど、 厨房に閉じ籠っていたら起こらないことばかりである。
   狐野氏の料理人としての原点は、 じじと呼んでいた戦死した祖父の弟が、 畑にできたものをつまみにしたり、 そば打ちを手伝ったりした時代にあると言い、「アルページュ」 でアラン・パッサールと働いたことは、 幼年期に回帰するような体験だったようだ。
 それだけの記述だったら、単なる料理人の成功譚に過ぎないが、 この本は違っている。出張料理人になってからの筆者は、 特にアテネモントリオールの頁に顕著だが、 様々な場でフィールドワークしながらメニューを考えることで、 料理家として独自の哲学を得ようとしている
途上にあるようだ。
 「切ない料理」は、 目と耳の不自由なゲストを迎えてのディナーについてのエピソード である。「リラックスして食べやすいように」 と筆者はもてなしをする依頼人と足のないワイングラスやカトラリ ー、盛りつけを工夫して備える。食事を楽しんだゲストは「 どの料理も、それぞれの食材の個性が引き出されていてよかった。 レストランでは食べたことのないセンセーショナルな料理でした」 と讃えながら「そして、あなたの料理は切ない」 と謎の言葉を残した。しばらくの後、 ゲストから著者に自伝が贈られ、ゲストが視力を失う前、 父親と過ごした海辺の記憶がディナーに出たオマール海老の一皿と 結びついて「切ない」という表現になったことが判明する。
 この体験から、著者は「料理の味や香りは、 食べる人の過去や思い出と深く結びついている」 という気づきを得た。
 自分が今、直面しているので印象に残った部分だが、 とかくハンディのある人には、 食事を提供する時などもその配慮すべき点ばかりに注意がいきがち だ。 カトラリーや食器が持ちやすいようにと気をつけたりすることは勿 論大事なことだが、よかれと思って、 食材をすりつぶしたりとろみをつけたりしているうちに、 美味しいとはほど遠いものを提供してしまうことに陥りかねないこ とに、このところジレンマを感じていた。
 「「料理は科学的なもの」と定義する料理人は多い。しかし、 それを超えて料理は、「人間的な部分を兼ね備えたもの」 であるということを、あらためて思うようになったのだった。」
 様々な経験を得ながらも、 現在の筆者は次のステージで仕事をしている。しかし、 同じ食に関わる職業でも、出張料理人とは、 料理人としての資質を一番問われる業種形態だったのではないだろ うか。クレームもトラブルも一身に引き受けて、 現世的な儲けより、依頼人の満足を自分のやりがいとする… そういう人こそ「料理は天職です」と言う資格があるのだろう。

                                                      2014.11.24

お弁当箱と手紙


映画「めぐりあわせのお弁当」は、リテーシュ・バトラ監督が、インドで120年前から始められ、今に続くダッパーワーラー(お弁当配達人)のドキュメンタリーを作ろうとしたことが、製作のきっかけだったという。
主人公の一方が狭い台所にこもりきりの主婦イラで、自分に関心のなくなった夫を前に、行き場のない気持ちを抱えて、上の階のおばさん(声だけしか出てこないが)を話し相手に暮らしている。もう一方は、役所と家の往復で日々を費やしている妻を亡くした役人サージャン。早期退職を願い出たために、押しが強くて調子のいい後任が押しかけてきて、辟易している。
 単調な毎日を送っている二人に変化をもたらしたのは、絶対ミスが起きないシステムのダッパーワーラーによってである。個人弁当配達とは、パンフレットの説明によると、家族が出勤した後に弁当を作る人が、9時~10時半に弁当を集荷してもらい、その集荷された弁当は「ローカル電車の3路線を使ってデリバリーが行われるため、アルファベットと数字を組み合わせた゛アルファニューメリック“が使われています」という管理方法で誤配達は600万分の1らしいが、輸送中の扱いを見ると、ちゃちな弁当箱は間違いなく消し飛ぶことが予想される。インドの弁当箱が金属製の重ね式で、補強がしっかりしているというのは、120年のデリバリーシステムの産物なのだろうか。
 イラが夫の気持ちを繋ぎ止めるため、念入りに作った弁当が幾つもの人手を経て、なぜかサージャンの手元に配られた。
 昼の役所の食堂で、インゲンの味を確かめ、訝しむサージャン。他の器のカレーの香りを嗅いで、やがて我慢できなくなったようにインゲンのサブジを皿に出す。何も知らないサージャンは、仕出し弁当屋に「とてもうまかったよ」と感銘を伝えるが、その後も続く誤配達から、弁当にイラが手紙を忍ばせたことに
よって、誰が弁当を送り出しているのか知ることになる。
 監督はムンバイに生まれ、ロバート・レッドフォードの主宰するサンダンス・インスティテュートで学んだというから、独特の視点を持っている。地元では皆があたり前だと思っているようなことに好奇心を向けてフィールドワークし、映像に組み立てているのが面白い。
 夫の命が天井のファンに左右されていると信じて、発電機を買ってしまったというイラの上の階のおばさんに、えっと思ったり、舌先三寸で露命をつなぐサージャンの後任候補が、夕飯の準備を短縮するため、電車の中で野菜を刻む場面には笑わされたりもするが、映画全体に流れるイラ、サージャンの屈託は、観た大人の誰もが共有できることだろう。
 イラの父は肺癌で、母は介護に追われ、お金にも困っている。夫の浮気に悩むイラに「出会ってすぐは愛しあっていたけれど、今はご飯、薬、お風呂、ご飯、薬、お風呂の繰り返し」と譫言のように嘆き、娘は悩みを深くする。
 イラはサージャンに会おうと提案し、サージャンは浮き立つが、あるささいなことから、自らの老いを感じて待ち合わせのカフェでイラを眺めて帰ってきてしまう。
 次の日の空っぽの弁当箱がイラの怒りを表していたが、この弁当箱に託したサージャンの手紙が、含羞と、相手に対する深い思いやりに満ちていた。
 「最近は、みんな手紙をかかずメールばかりですから」と映画にも発言が出てきていたが、往復書簡の言葉が、何か自分の胸から響いてきたものではないか、とそんな気持ちにさせられる映画だった。
 映画を観た後、空腹になるのはご覚悟を。
2014.9.7

マリアからアリスへ

ここ数日、職場の冷蔵庫の野菜室に、大きな赤かぶが鎮座していた。どこかの誰かががよいしょ、よいしょと抜いてきてくれたのだろうか。漬物にしたら20人前はゆうにありそうな大きさゆえ、食事を調える時間の枠では、処理しきれないままだった。
 しかしさすがに葉っぱが萎れ、皮に艶がなくなってきたので。ちょっと塩で揉んでおこうと、葉を落とし、変色したところの皮を剥いて、蕪を刻んでいると、テレビから「アリス・ウォータースが…」というナレーションが聞こえてきた。 
 元々はモンテッソーリ・スクールの教育者で、1971年に「その時期に一番旬の、美味しいオーガニック食材を提供する」というレストラン「シェ・パニース」を開いたアリス・ウォータース。最近、日本でも「アート・オブ・シンプルフード」という大著が翻訳され、その他、様々なメディアによって、アリスの四十年に渡る食と農の実践に注目が集まっているようだ。
 テレビで放映していたのは、アリスが、マーチン・ルーサー・キング・ジュニア中学校で、20年前から取り組んでいる「エディブルスクールヤード」(食育菜園)の取り組みだった。
 オーガニック農法の草に覆われた畑で子ども達がケールを収穫している。日本では青汁でお馴染みの野菜だが、「どうやって食べるの?」という問いに、子ども達が「オリーブオイルで蒸し焼きにして…」と作業をしながらこともなげに食べ方を語り始めたことに感銘を受けた。
 この映像を見るまでは、アリス・ウォーターの名前は知っていたけれども、今までの日本での語られ方は、洗練されたオーガニックレストランのオーナーであることが強調されすぎていたように思われる。「お洒落な都会生活での菜食には興味ないなぁ」と今まで、どうやら勘違いしていたが、今回、かぶを刻んでいたことが影響してか、収穫したものをおいしく料理したいという気持ちは、日本もアメリカも、そして子どもも大人も変わらないということが、やけに身に迫って感じられたのだった。
 ずいぶん前のことだが、大塚敦子『野菜が彼らを育てた』(岩波書店)という本で、カリフォルニア州の刑務所で行われている「ガーデンプロジェクト」について知ったl。受刑者が畑仕事に携わることによって、園芸療法的な側面では精神の安定を得、また、農作業のプログラムを受けることで、仕事面の社会復帰にも非常に効果があるといった内容だった。ちょうど、当時青少年の自立支援施設を訪れることがあり、そこでも畑仕事などをしていたが、態度が悪いと長時間草むしりなどという農作業の導入がされていて、どうしてそんな活用になってしまうのかと嘆息したことがあった。ちょうど近隣の県の同じような施設で職員が青少年に襲撃される事件があり、やはり何かというと延々と草取りや書き取りなどを懲罰にしていたという報道があり、「草取り=罰」という短絡的な発想は昔からあるが、一体どこから来たものなのか…とおおよそ園芸療法からは遠い農作業のありかたに暗い気持ちになったものだった。
 アリス・ウォーターが学んだモンテッソーリメソッドとは、イタリアで最初の女性医師となったマリア・モンテッソーリが提唱した教育方法である。日本では、なぜか様式化した早期知能教育のような形で導入されているが、もともとは、女性医師に門戸が開かれない病院が多い中、マリア・モンテッソーリは、やっと精神病院に職を得た。鉄格子で行動を制限されるような環境の中でも、発達に遅れがあるという子ども達が、自ら感覚刺激を遊びから見いだして育っていくを見て、マリアは気づきを得て、教育者としての歩みを始める。のびのびと安心感を持って育つことがが保障される環境を用意して、子ども達の発達を促すような感覚遊びを考案し、教育法として確立したものが、アメリカでは、アリスのような優れた教育者を得て、よりダイナミックな形で根付いていっているようである。
 マーチン・ルーサー・キング・ジュニア中学校も、もともとは落書きだらけの荒れた学校だったことをアリスが憂いて地元紙にコメントをしたことから、「どうすれば、この学校が健全になれるか、知恵を貸してくれませんか」と校長から相談され、食育菜園が始まったのだという。小学舘『アリス・ウォータースの世界』には、ある日の食育菜園の様子がスケッチされている。
 「ある日の授業でフィービーというひとりの生徒が、レタスの葉っぱを手に、光合成の説明を始めました。そして説明が終わると彼女はそのままみんなの目の前でそのレタスを切って水で洗い、次ににんじんと真っ赤に熟れたトマトを刻み、最後にドレッシングをつくってサラダを完成させました。フィービーは実際にサラダをつくって見せることで、サラダを食べることが植物のエネルギー、すなわち太陽のエネルギーを食べているのだということを、生徒に示したかったのです。(中略)教室はフィービーへの拍手喝采で包まれたのでした。」
 アリスは、ファニーという娘がパニースという年の離れた恋人と結ばれる古いフランス映画にちなんで自らのレストランに「シェ・パニース」と名づけたという。なかなかのロマンティストでもあるアリス。娘のファニーが主人公の『シェ・パニースにようこそ~レストランの物語と46レシピ』(京阪神エルマガジン社)には、ママのお料理ルールとして、5つのアリスの持論がやさしく説かれているが、「さいごに「だれかをしあわせにしたかったら、なにか体によくておいしいものをつくってあげること」。これママの口ぐせよ」という言葉に、「食育の実践者」とか「食の革命家」という厳めしい呼ばれ方とはまた違う姿を見ることができる。
 マリア・モンテッソーリの意思が活気と愛情に溢れたアリスに受け継がれ、今後どうなっていくのか、その未来が楽しみである。
2014.2.2